日常と非日常のあいだで  その四「むきりょく、むかんどう、鎖工場」

 「夜中に、ふと目をあけてみると、おれは妙なところにいた。目のとどく限り、無数の人間がうじゃうじゃいて、みんなてんでに何か仕事をしている。鎖をつくっているのだ。」

 大杉栄の『鎖工場』という小話は、こういった出だしで始まる。自分の体にいっしょうけんめい鎖を巻き付け、隣の人間もその鎖の端を持ち、数珠繋ぎに巻き付ける。その鎖を解きほぐそうとする人間がいると隣の人間が手に持っている棍棒でポカポカと3つ4つ叩かれる。しょうがなく、その人間もあきらめて鎖を自分の体に巻き付ける。

『鎖工場』は、現在でも十分通用する内容で読んでいる我が身をも苦笑したくなってくる。他人事ではないぞ、と。

 人間の生活とは不思議なもので、どんな状況でも慣(らさ)れてしまうものなのだ。最近の労働強化、長時間労働という職場環境の変化は、食べては寝るだけというような単調で退屈な日々を強要してくるのであるが、どうもそのパターンを受け入れてしまっている私がいたりする。兄の病状もあまり思わしくなく、休みの日になると実家を往復する。疲れた足取りで墨田区のホームレスの生活保護を求めるボランティアや反戦デモにたまに参加する。家に帰って、TVをつけてお笑い番組を見ても、何がおもしろいんだろうと思うことが多くなっている。退屈で、空虚な日々。批判する気にもなれず、一日中シラーッとして過ごす。最近、私は、アルコールを飲んでは、はちゃめちゃな行動をしでかすというようなパターンが以前にも増して多くなったが、その反映なのだろうか。

 こう考えてみると、人間の生活とは、自分の希望をそぎ落としながら、将来へのあきらめという鎖で、身をよじってもほどけないほどになってしまうことなのかもしれない。それは、頭脳までをも、何か途方もない鎖で巻き尽くしていく過程なのだろう。

 そして、社会ではとんでもないことが次々と起きているというのに、そのことを考える余裕や時間さえも奪われていることに「ハッ!!」と気づくのだ。

 考える時間さえも奪われている労働環境や日々の生活。このままこのような生活を続けることで、私はおそらく廃人となり、スクラップ同然で捨てられるのだろう。そうなるか?ならぬべきか?それは私のみぞ知ること。時間はあまりないような気がするのだ。(S)


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