━ 基地・軍隊・性暴力 ━ 韓国の闘いに学ぶ旅
性暴力への「依存」から自立しようとする女性たちの努力(2000年)

米軍の占領政策と「基地村」

 朝起きると、あいにくの雨で寒かった。「あまり起きたくないな〜」、と思いつつも今日も予定があるため起床する。スティック状のガーリックトーストと豆乳を買い駅に向かう。最近の東京では、冷たい雨が降るということは、めったになかったが、ここに来て久々に体にこたえる冷たい雨。この日の韓国は、どこかの地域で初雪が観測されたという。
 電車でソウルから北へ三十分程で議政府駅に到着する。議政府駅からバスに乗り換えて着いたこの地域名は、ぺッポルという。その「ペッポル」とは「一旦足を踏み入れたら出られない」という意味で、その意味がそのままついてしまった地域なのだという。
 バスに乗っている間も見えていたが、道路脇の米軍基地から離着陸しようとしているヘリコプターの音がうるさい。バス停を降りると、「パタパタパタパタ」とヘリの音が休むことはない。ヘリがすぐ近くで飛び、その脇に村がある。基地村は、韓国全土に広がり二十カ所点在している。やはり韓国―沖縄と結んだ米軍基地の問題と構造は共通する点があるようだ。
 道路脇には、赤外線の監視塔があり、夜になっても監視塔のセンサーによって、基地が監視されている。そこの基地の周囲に村がある。その村を基地村(トゥレパン)という。その基地村で活動しているマイシスターズプレイス(以下「MSP」とする)の方に会いに行く。
 まず、基地村の成立する背景をざっとスケッチしてみたい。基地村は朝鮮半島が日本帝国主義による植民地支配から解放された直後に始まった、連合軍(米軍)による占領政策と切っても切り離せない問題だ。当時、南朝鮮でも日本の敗戦とともに、自分たちの国を自分たちでつくるという気概のもとで、各官庁から日本人を追い出し、自分たちで運営するなど独立の機運は高まり、共和国独立樹立宣言を出すまでに至っていた。ところが、朝鮮民衆の独立する動きに対し、米軍がその自主的な動きを封じ、四八年に李承晩政権をうち立てた。
 米軍は、それら朝鮮民衆の自主権を奪う過程の中で、性産業に関しても存続させる路線をとった。当時、朝鮮半島にも日本の植民地政策によって持ち込んだ公娼制度が存在していた。その公娼制度の名前と形を変えて、米軍の占領統制や李承晩独裁政権にとって都合の良いように買売春制度が作られてゆく。
 そして、朝鮮戦争が勃発する。朝鮮戦争では、この売春制度のもと北朝鮮地域でもつくられた軍用性産業施設に多くの女性たちが送り出されている。さらに、朝鮮戦争で多くの女性たちが難民化している。その膨大な数の女性たちを集めて買春地区を作っていく。それが現在の「基地村」と呼ばれる地域なのだ。いわば、米軍占領政策のために生まれ、犠牲となった人たちの村とも言えるのではないだろうか?

マイシスターズプレイス

 MSPでは園長さんや基地村で性産業に依存せず自立するための作業をしている人と会い、昼食をごちそうになりながら話を聞くことができた。園長さんは、笑うとあどけなさの残るような方で、人見知りなく接してくれるとても親切で優しい人だった。
 園長さんと同伴して来てくれた、作業所のメンバーとも会う機会があったのだが、初対面だったためか話を聞くことが出来なかった。とても残念だったが、同時に「私のような日本の男性が突然訪れたとしても暖かく迎え入れてはくれないだろう」という思いが私自身どこかにあったのだ。そんな気持ちが相手にどことなく伝わってしまったのかもしれない。
 あいにく今日は作業場を閉鎖したのだという。聞くところによると、雨になると酒を飲んで暴れてしまう女性がいて、人に突っ掛かってはいちゃもんを付け、ケンカになってしまう。彼女は、四十年もの間、性産業で働いているらしいのだが、雨になると何か嫌なことでも思い出すのだろうか。園長さんも彼女と何度も喧嘩し、ケガをしながらつき合っているのだという。彼女たちの多くは、性産業に足を踏み入れた末に、流れ流れて基地村で働き、身寄りもない人だ。そのため、寂しさの憂さを晴らすためか、いろいろなトラブルも絶えないという。
 食事をごちそうになった後、MSPの作業所を案内してもらう。作業所は、三人から四人の人たちがテーブルを囲んで絵やネックレスを作ることが出来るような大きさの部屋が二つほどある。壁には絵や粘土で作成したとネックレスがかけられ、木箱や製作中のコースターなどがあった。
 私にはなかなか出来ないような作品の数々が並べられている。これらの作品をコツコツと作り上げる忍耐力は相当なものだと思う。これらの作品を販売して、自分たちの生活や自信につなげていこうというMSPの人たちの思いは、作品の一つ一つに込められているようだ。数々の絵や木工細工、ネックレスに彩られ込められた思い、そんな気持ちを無駄にしてはいけないと思った。園長さんが言うところによると、この中の作業場の作品が認められ、近いうちに南アフリカで開催される作品展に出品する予定だという。
 作業所を見た後、ペッポル地域の基地村を案内してもらった。やはり、この基地村の雰囲気は、村を隔てた他の地域とは明らかに違うのだ。大きくない地域だというのにゴチャっとした小さな店が並びローマ字で何やら書かれている。中には「ASONDEKE」というような看板の店もある。何故このような名前なのか不思議だったが、聞くところによると、日本が植民地支配を続けていた時代のなごりで、現在でもこのように現れているのだという。そして、路地を歩けば米兵に出会う、そのくらい米兵が徘徊している街なのだ。
 コーヒーショップにも寄ってみたが、みんなドル換算だ。米兵とおぼしき隣の三人組は、何も注文せずテーブルを散らかし、歓談して出ていってしまった。店の人は、それを無言で片付け、また仕事をするのだ。言いようのない怒りがこみ上げてきたが、通訳氏は「こんなことで怒っていては、基地村では生活できませんね」とそんな私をたしなめた。
 今年二月、七十歳のセックスワーカーが米兵によって殺害されたという。性産業に依存せざるを得ない基地村の女性たちは、社会保障さえなく、七十歳になっても外で客の手を引いて、少ない金額で商売をしているのだ。この地域で、二月といえばとっても寒いのだろう。高齢のためバーやスナックにも雇われず、米軍相手に外で客を引く姿を想像した。薄暗い路地にたたずみ、この路地で手を引こうとした年老いた女性を米兵が襲ったシーンを思い浮かべざるを得なかった。急な坂道を上り、基地のゲート前にたどり着く。店の人たちの働く姿が外から見えた。そしてヘリコプターの「パタパタパタ」といううるさい音。このような地域で基地とともに人々が生活している。それは生きる「たくましさ」などと私が形容してはいけないものだと思った。
 夜は、米軍の行くバーに行った。基地村の店は皆ドル換算なので、やはり米軍専用バーと呼んだ方がよいのだろう。私たちが入ったときは、まだ米兵の姿はなかったが、店の女性たち数人がビリヤードに興じたり、テーブルを囲んで歓談していた。この何とも勝手の分からない居心地の悪さ。
 酒を注文し、しばらく通訳氏と話をしていると、米兵たちの勤務が終わり、まばらに店に入ってきた。割高で飲み物を頼むと、店にいるフィリピン人女性たちと同伴して話や踊りが出来るというもの。このバーで働くフィリピン人女性たちは、固定給で日本円に換算すると四万円(約40$)をもらい、生活と仕送りをしているのだという。私は、ただ勝手も分からず、カウンター越しから米軍たちと女性たちの一見和気あいあいとした雰囲気を眺めて時は過ぎていった。


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