『パレスチナ問題』の解説

●イブラヒーム・アル・アビド(著)、PLO研究センター(編)『パレスチナ問題』(阿部政雄 訳・解説、亜紀書房)
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⇒ 阿部政雄先生の解説:

 一九五九年、カイロから、アジア・アフリカ代表と一緒にガザの難民キャンプ訪問以来、一九七三年それまでのパレスチナ問題を十数年掛けて研究し、山口淑子さん(後の大鷹淑子参議院議員)とのテレビ班にアドバイサー兼コーディネータとして参加するなどの経験とアラブ連盟東京事務所の勤務中の読書に基づいて出版した『パレスチナ問題』(イブラヒーム・アル・アビド(著)、PLO研究センター(ベイルート)(編)、阿部政雄 訳解説、亜紀書房一九七三年初版、一九九一年年重版)の中の要所、要所に書いたものです。この本は当時の全新聞で、パレスチナ問題を初めて、組織的に解明した(しかもパレスチナ人の科学的論考を土台にして)本として絶賛されました。アラファト氏推薦の言葉あり。


「パレスチナ問題の解説」

1.パレスチナのアラブ的性格

〈解説〉神の約束

 一九六七年六月の「中東戦争」直後、日本ばかりでなく全世界の新聞、放送、雑誌などにさかんに氾濫したのは、「旧約聖書」の文句であった。「旧約の民ユダヤ人」がついに二〇〇〇年の流浪の果に神との「契約の地」に帰ってきた、これこそ「メシアの再来」、”二〇世紀の奇蹟”だという讃辞がノアの洪水のように流出したのである。平素、聖書になじみの薄い日本人も、エルサレムの「嘆きの壁」の神殿祉で随喜の涙を流し、勝利に酔うイスラエル兵や乱舞するラビたちの写真や、やたら眼に飛び込んで来る「出エジプト記」「ソロモンの栄華」「バビロンの幽囚」などという古代宗教時代の文句に戸惑いを感じながらも、一方心の片隅に残っている「光ほのかに」、「夜と霧」などに描かれたナチス・ドイツの凄絶な”ユダヤ人狩り”や長い受難の果にユダヤ人がパレスチナに安住するのも同情に価するといった気持を幾分なりとも起させたものであった。

 しかし、また同時に真珠湾奇襲攻撃を思い起させるイスラエルの電撃作戦や、灼熱の太陽の下に砂漠の中に裸足のままに追い払われ、飢えと渇で死んでいったエジプト兵、国際法で禁止されているナパーム弾で殺され、あるいは着のみ着のままヨルダン川を渡って逃れてゆく難民たちの写真を見る時、ユダヤ教とは一体何なのか、教祖のモーゼの十戒にある「汝、殺すなかれ」という教えはこの宗教の中でどんな意味をもつものか、という疑いにとりつかれ、割切れぬ思いをした人びとも多かったに違いない。それは、スピノザが提起した普遍的一神教の神と、一ユダヤ民族にのみ妥当する神の矛盾、普遍の神とその神の「選民」の間の矛盾なのである。

 本章1−4にいたる間答は、イスラエルの金看板カナン〔パレスチナ〕にたいする「神との契約」とは、果してユダヤ人だけを対象としたものであったのか、そもそもユダヤ教の本質とは何かについて明快な解答を与えている。

 最近、日本で話題になったイザヤ・ベンダサンの『日本人とユダヤ人』も、日本の文明批評にことよせて、このイスラエルの”皇統連綿性”や「遅れたアラブ封建制と民主主義の砦イスラエル」などといったイメージ作りを今一度旧約聖書からのふんだんな引用によって日本人を煙に巻きながら達成しようとしているのである。

 この書物こそ、一九七〇年秋のパレスチナ・ゲリラの連続ハイジャック事件以来、世界的にその存在を明らかにした総数三〇〇万人に近いというパレスチナ民族の実在を、何とか必死に否定しさろうという意図を秘めたシオニストが得意とする高級文学的宣伝文書に外ならない。

 世界的に有名なバイオリニスト、ユフディ・メニューヒンの父親にあたり、反シオニズムの優れた学者であるユダヤ教徒のモシュ・メニューヒンは、『現代におけるユダヤ教の堕落』──この本がアメリカで発行される度に、出版杜が脅迫されたり、店頭に出た本はいち早く買い集められて焼かれるという――の中で、次のようにのべている。

 「預言者のユダヤ教が私の宗教であって、ナパーム弾のユダヤ教『ユダヤ』民族主義ではない。『ユダヤ』民族主義者――戦闘的ユダヤ人の新しい実例――は、私に関する限りユダヤ人ではなく、ユダヤ人の道徳や人間性の一切の感覚を喪失した『ユダヤ人』のナチである。反シオニズムは、反ユダヤ主義ではない。」

〈解説〉アラブ的性格

 パレスチナは一体だれの国土であろうか?イスラエルは、古代エジプト王国時代のダビデ・ソロモンの栄華を盛んに宣伝しているが、最初の先住民族とみなされているカナン人〔今のパレスチナ人の祖先〕は、これまでみたように紀元前二〇〇〇年にすでにこの地に住みついている。また、パレスチナの原名にたったフィリスチナ人は紀元前一二世紀にこの国の南部に住んでいた。

 ヘブライ人がエジプトから侵攻してきたのは、紀元前一二世紀になってからのことであり、ユダとイスラエルの王国が二〇〇年続いたとはいえ、フィリスチナ人は征服されなかった。それに、ダビデ・ソロモンの最盛期にしてもたかだか七八年の間のことにすぎない。また、これらの王国も紀元七〇年にはローマに亡ぼされ、一三二年には、ハドリアヌス皇帝によってその反乱は鎮圧され、事実上、滅ぼされ、ユダヤ人は世界に離散した。

 一方、今日のパレスチナ人はカナン人の時代から四〇〇〇年の間、この地に住み続け、ローマの支配下にはキリスト教徒に改宗し、六三七年のイスラム教徒アラブ人の占領によってアラブ人となり、そのあるものはキリスト教徒になったとはいえ、その基本的な構成は変化がなく、その根底としてのアラブ的性格は保持されてきたのである。

 さらに重要なことは、この長い歴史の中で、パレスチナのユダヤ教徒自身が、自分たちをアラブ人とみなしていることだ。一九一八年に行なわれた調査によれば、パレスチナに住んでいた五万人のユダヤ人のうち、四万人は祖父伝来、幾千年にわたってこの地に住み、自らをアラブ人とみなすセム族のユダヤ教徒であり、僅か他の一万人だけが、一八八一年以来、ロシアや他の東ヨーロッパからパレスチナに移住してきた非セム族系のユダヤ人であったという。こうした事実は、現在、パレスチナ・ゲリラの中にユダヤ教徒のアラブ人が参加していることに光をあてるものである。

 これと関連して指摘しておきたいことは、一般に宣伝されているように「緑の部分はイスラエル、砂漠の部分はアラブ」というイスラエルの観光客用の宣伝文句についてである。

 イスラエル建国以来、日本の四国より小さい土地に、二〇〇億ドルに上る海外からの、とくにアメリカからの援助資金を惜しげなく投じて開拓を行なった結果、かなりの程度の緑化に成功したとて驚くにはあたらない。

 しかし、たとえパレスチナが全体として貧しい農業国であるとはいえ、もともとパレスチナの地は、その海岸地帯や台地などは、遠く旧約聖書にも「乳と蜜流れるカナンの国」と知られるように肥沃な土地であり、パレろチテのオレンジとオリーブは十字軍の時代以来、名声を博してきた。また南部は小麦、ヨルダン川は野菜、冬の間は果物と、一寸の土地も最大限に耕され、岩肌も掘りおこされ、段々畑にされていた。

 訳者も一九五九年春、カイロから飛行機でガザを訪れたとき、空港からガザの町までのバスの窓から垣間みた、たわわに実ったオレンジ畑の打続く田園風景をみて心を打たれたのを思い出す。

 イギリスの委任統治三〇年の間、執拗なユダヤ人の土地の買収工作にもかかわらず、一九四七年末のパレスチナ分割案が国連で討議された頃のユダヤ人土地所有は、六・五%にしかすぎなかったこともこの国土へのアラブ人の愛着を物語っているといえよう。

〈解説〉帝国主義との結託

 今日のパレスチナ人民の悲劇を生み出した最大の出発点は、一九一七年一一月二日のバルフォア宣言であった。アーサー・ケストラーはこの宣言は「ある国が第二の国民に第三の国民の国土を与えることを厳粛に宣言した」と評したが、このことに象徴されるように、この時期は、自国の領土でないアラブの国土を勝手にユダヤ人に与えるといった専横がまかりとおり、アジア・アフリカ諸民族の運命が、ロンドン、パリ、ベルリン、ウィーンなどの卓の上で決定された、帝国主義華やかなりし時代であった。この曖昧極まりない五六語からなるバルフォア宣言の内容は次のようなものである。

 「親愛なるロスチャイルド卿
 私は、内閣にたいして提出され、承認されたユダヤ人シオニストの願望にたいする同情を示す次のような宣言を陛下の政府を代表して、あなたに伝えることを大きな喜びと存しています。
 陛下の政府は、パレスチナにおけるユダヤ人の民族的郷土の設置に好意を抱いており、この目的の達成を容易にするために最善をつくすでしょう、ただしその際、パレスチナに現存する非ユダヤ人共同体の市民的・宗教的諸権利や、他の国においてユダヤ人が享受している諸権利や政治的身分に害を与えることは何も行なわれないことをはっきり了解されるべきものとします。
 私は、もしあなたがシオニスト連合にこの宣言をお知らせ下されば幸甚と存します。
敬具
アーサー・ジェイムズ・バルフォア」

 この国際法上無効としか考えられぬ二人の貴族間の私信にすぎないバルフォア宣言の発表された当時の背景は何であったろうか?

 これには、当時ヨーロッパに散在していた三〇〇万―四〇〇万人のユダヤ人に民族的郷土を与え「イギリスに忠誠なユダヤ人国家をエジプトやスエズ運河の近くに設置する」〔ハーバート・サミュエル初代パレスチナ高等弁務官〕というイギリス帝国主義の目標が秘められていたのである。老大な財力を誇るシオニストユダヤ人の協力によってアメリカの参戦を促すことや、当時のシオニストの指導者でマンチェスター大学教授であったハイム・ワイズマン博士の発明によるアセトンの製造法を入手することがその原因であるとされている。

 しかし、一方、イギリスは、この「バルフォア宣言」と両立しない二つの重大な国際的約束を秘密裡に結んでいた。

 この「バルフォア宣言」が発表された年の二年前の一九一五年一〇月二四日にはエジプト・スーダン高等弁務官マクマホン卿とアラブを代表してメッカのシュリーブ〔大守〕フセインとの間で長期問にわたる書簡のやりとりのあと、パレスチナをシリアの一部として大戦後に独立させることが約束ずみであった。

 また、イギリスのもう一つの背信行為は、バルフォア宣言の一年前の一九ニハ年にフランス政府と秘密裡に協定を結び、「北部パレスチナを含むシリアの大部分にたいするフランスの要求を認め、南パレスチナを国際管理下に置く」ことを決めていたことである。これがロシア革命の際ツアーの金庫から発見されたというサイクス・ピコ協定で、実にイギリスは三枚舌外交を演じていた訳であった。

 ただこの「バルフォア宣言」がイギリスの閣議で問題となったとき、ユダヤ人でありながら反シオニズムの立場に立つインド植民相、エドウィン・モンタギュー卿が、シオニズムは各国におけるユダヤ人の立場を弱め、結果的には反ユダヤ主義に通じる行為であると涙ながらに反対したことも記憶されるべきである。

 バルフォア宣言に明記された「ユダヤ人の民族的郷土」という目標の実現のためにイギリスは、一九二二年のパレスチナの委任統治を担うことになる。

 委任統治は、「ユダヤ人の民族的郷土の創設を確実にする政治的・行政的・経済的条件のもとに国を置くことに責任を負う」ものとした。かくて、イギリスの委任統治三〇年の間に、パレスチナはイギリス帝国主義の被護を受けたシオニズムの野望の下に、癌細胞に蝕ばまれてゆくように蚕食されていったのである。

〈解説〉国連の大失態

 日本人ばかりでなく世界の多くの人びとは、イスラエルが国連に加盟しているという単純な理由から、イスラエルは合法的国家だと考えている。それは果して正しいのだろうか?しかし、日本人にとってイスラエル建国当時のいきさつを知ることができなかったのが現実である以上、これも一面やむをえないといえよう。当時シカゴ・トリビューン紙で「国連最悪の日」と報道されたように、一〇〇万人を越える住民を無視してある一国の分割を国連が勧告した一九四七年という年は、世界各国はまだ、あの悲惨な第二次大戦の余波から立直っていなかった時代であった。日本でも片山内閣が成立したが、食糧難はまだひどく、配給だけに頼っていたある判事の餓死事件が紙面を賑わした頃の、いわば、人びとはその日その日を生き抜くのが精一杯の頃であった。

 「パレスチナ分割案、国連で可決」といった記事は、タブロイドニ頁立の当時の朝目新聞に僅か二段見出しで報道されたにすぎなかった。日本人にとってパレスチナ間題のもつ意味が判らないのはむしろ当然であったといえよう。

 しかし、一九一七年のイギリスによる「バルフォア宣言」につづくこの国連の「パレスチナ分割勧告案」の可決は、アメリカを筆頭にソビエト・西欧諸国による国連憲章そのものを蹂躙する国際的犯罪行為に外ならなかった。

 この分割案は本文にもあるように、もともと総会の三分の二の賛成がえられず、死文化する運命にあったのであるが、アメリカにおけるシオニストの圧力によりその投票は、最初は四八時間、つづいてまた二四時間と二回も延期され、その間に小国への圧力工作が執拗に行なわれて辛うじて可決されたのであった。アジアではフィリピン一国、アフリカではリベリア、南アフリカ連邦の二国がアメリカの脅迫のもとに賛成したにすぎなかった。この分割案の強行採決は、国連がまだアメリカ帝国主義の下請的投票機械の域をでていなかった「暗い夜の記録」と至言える時期のどさくさまぎれに仕組まれた芝居であった。

 しかし、第二次世界大戦後のアジア・アフリカの民族解放運動の進展と「アフリカの年」といわれた一九六〇年における多数のアフリカ独立国家の加盟によって、それまでアメリカの政治的道具と化していた国連の構成を大きく変えた。

 今日、国連におけるイスラエルは急ピッチに居心地が悪くなろうとしている。このことは過去二〇年にわたり国連における正当な地位を奪われていた中華人民共和国の国連加盟(代表権回復)の実現により一層烈しくなってゆくに違いない。

 この意味からも一九七〇年の一一月と一二月に国連総会で「パレスチナ人民の民族的自決」が可決されたことはイスラエルにとって一大痛撃であった。自ら民族自決という憲章の原則をふみにじった国連が「パレスチナ人民の民族の自決」を賛成多数で支持したことは、国連の質的変化を物語る画期的なものであった。

 「(1) パレスチナ人民が国連憲章に従って『平等の権利と民族自決』をもつものであること。(2) パレスチナ人民の不可譲の権利の完全な尊重は、中東における正義にかない、永遠の平和の確立にとって不可欠の権利である。」

 この決議が賛成多数で可決されたとき、エバン外相は「国連はいよいよ堕落した決議を通すようになってしまった」と言明したという。一九七一年には日本代表もこの決議に、賛成投票した。「国連の決議は紙切れにタイプされた文章にすぎない」とか「アメリカの投票機械」と蔭口をたたかれた国連も今、中国の国連加盟という新しい歴史を迎えるにあたって内部から変化しようとしているようだ。

〈解説〉イスラエル内のパレスチナ人の財産

 イスラエルは、中東における「近代国家」として、ヨーロッパ風の大都会や「社会主義の楽園」キブツを誇らし気に宣伝している。

 しかしテル・アピブの高層ピルの地下にも集団農場のオレンジ畑の土にも、ユダヤ人に何らの敵意を抱いていなかったパレスチナ人の屍が埋められ、血が浸み込んでいるのである。

 このイスラエルが、現在全世界で旧約聖書の研究の最も盛んな国だと自讃しているが、土着のパレスチナ人を暴力で追放し、抵抗するものを虐殺したシオニストたちにとって「旧約聖書」を研究することが何のかかわりあいがあるのかと首をかしけざるをえない。

 以下、ヘンリー・カヅタン教授の『パレスチナ・アラブ、イスラニル』から、イスラエルに残されたアラブ人の財産を簡単に紹介しよう。

 一〇〇万人のアラブの財産は、動産、不動産を間わず、一九四八年にすべてイスラエルによって略奪された。この正に、強盗行為によって奪われた財産は量り知れないが、イスラエル兵が勝手に持ち出した動産や個人の所有物、商業的、工業的財産などを除く土地の価格だけでも当時の価格で四〇億ポンドと見積られている。

 これらの財産についてのイスラニル国会での討議はつねに秘密会とされ、国連でさえ何も知らされていたい。

 奪われたものを列記すれば、(1) ヤッファ、ナザレ、アクレだと一六の都市と八○○○の村とその財産、(2)農地六七〇万五〇〇〇ドナム、柑橘園一三万五〇〇〇ドナム、オリーブ、ぶどう園、一〇五万四〇〇〇ドナム、(3) 一〇〇万人の動産、(4) 個人的所有物、その数七八○○○に上る商業、工業財産。

 ジョン・H・デービス博士は、これらの財産にたいする利息だけを考えても、イスラエルはパレスチナ・アラブ人に尨大な額の負債があるといっている。

2.ユダヤ人間題

〈解説〉「ユダヤ人間題」は解決されうるか?

 紀元前七〇年、ローマに国を亡ぼされ、世界に四散したユダヤ人は、西欧のキリスト教会の歪んだ歴史の中で犠牲者とされ、被害者とされてきた。ユダヤ人は第一回十字軍遠征の頃から、ヨーロッパのキリスト教社会の中で「キリストを売った者」という汚名を着せられ、土地の所有を禁止され、頭に三角帽子すらかぶされるという虐待をうけやむなく商業や金融業につかざるをえなかった。

 また、ユダヤ人はたえず支配者にたいする人民の不満や反権力闘争をそらす「身代り羊」としてつかわれてきた。

 しかし、一七七五年のアメリカの独立戦争、一七八二年の「ユダヤ人特許令」につづき、一七八九年のフランス革命を契機に、フランスでは、カトリック教の反対にもかからずユダヤ人への平等の公民権が法制化され、この傾向は他の西欧諸国にも現われ始めた。

 しかし、一八八二年、ロシアのアレクサンドル三世は、ユダヤ人弾圧で悪名高い「五月法令」を施行し(当時とくにロシアを中心にした東ヨーロッパに世界の半数が住んでいたといわれるが、この迫害で三〇〇万人がアメリカに移住した)、さらにルーマニアなど東ヨーロッパでの反ユダヤ人運動も熾烈となっていった。一九〇五年の「一〇月ユダヤ人虐殺」は、一九〇六、一八、二一年と続いた。一方、フランスでは一八九四年に、文豪ゾラを巻込んだドレフュス事件が発生した。

 このような受難のユダヤ人にとってとるべき道は二つあった。

 一つは、ユダヤ人は民族としては、最早存在せず、ユダヤ教は精神のあり方を律する宗教としてのみ受取られ、それぞれの国の中に同化し、その国の市民として平等の権利を享受しなから、その国家に貢献する道であった。アインシュタイン博士をはじめ世界的に偉大なユダヤ人は、民族としての歴史的基盤を欠いた実体のないユダヤ民族の存在を認めず、同化の道を選んだ。

 もう一つの道は、ユダヤ人への迫害は永遠に不可避であり、迫害者の論理を逆手にとってユダヤ人は一つの民族を構成するものという観念論の立場に立ち、その民族的利益を図る手段としてのイスラエル国家を人工的につくろうとするシオニズムで、ヘルツルが一八九五年に「ユダヤ人国家」を書き一八九七年に開催されたバーゼルの「世界シオニスト会議」から次第に具体化していった。

 しかし、ユダヤ人をこのような状況に追い込んだ西欧社会の病根を断ち切るための社会変革の努力を放棄して、現代社会における迫害への唯一の脱出口として一民族中心の国家を考えることは、ドイッチャーやトインビー教授のいうようにアナクロニズムの思想である。ユダヤ人は物理的隔離が必要だという考えは、正に一つのゲットー国家を創出することに外ならなかった。つまりシオニズムと反ユダヤ主義とは同一内容の裏表に外ならない。

 このように社会の変革、発展を認めぬシオニズムの観念的考え方のために、イスラエル国家自体にとっても「ユダヤ人とは何か」という定義づけが今もってなされていないことは注目すべきである。

 この曖昧さのお蔭で、イスラエル国内では、宗教界や政界が絶えず二分し、内閣が分裂の危機にさらされたり、デモが続発したりしている。そして結局は政治的妥協で辛うしてこの矛盾が糊塗されているにすぎない。

 さらに、一八九七年のバーゼルでの第一回シオニズム会議後においても、世界の圧倒的多数のユダヤ人は、ユダヤ人が一つの民族を構成し、古代ヘブライ人の子孫だという「真理」を信じていなかった。一九世紀の民族主義全盛期のユダヤ人ブルジョアジーは徹底した同化主義者であったし、五〇〇万人にー上るアメリカのユダヤ人の間でもどんなにシオニスト機構からの圧力を受けようともイスラエルに行きたがらないユダヤ人が多かった。

 しかし、こうした流れを逆転させたのは、イギリス帝国主義の打算の産物、「バルフォア宣言」であり・とりわけ一九三三年、ナチスのドイツの政権掌握による「ユダヤ人撲滅」政策やアウシュビッツにおける六〇〇万人のユダヤ人の虐殺であった。ドイッチャーはシオニズムを”不死鳥”のように甦らせたのは、アウシュビッツであったといっている。

〈解説〉世界シオニスト機構と”狩り込み”

 一九四八年にイスラエル国家が創られたとき、全世界一五〇〇万人のユダヤ人のうち、僅かその五%しか集らなかった。現在でも世界の約一五〇〇万人というユダヤ人のうちイスラエルには二五〇万人しか集っていない。鳴物入りで躍起になって努力した結果がこの始末であった。

 イスラエルが世界の全「ユダヤ民族の代表国家」という理念を実現するためにも、イスラエル国内のユダヤ人を対象とするばかりでなく、もつぱら「ティアスポラ」(離散)の状態にあるユダヤ人の”狩り込み”を続け、イスラエルヘの協力を強要する対外的機構が必要であった。この国外のユダヤ人を対象とし、その力をイスラエルの強化のために最大限に動員しようとする組織が、一八九七年のバーゼルの第一回シオニスト会議で創設された超国家的で疑似政府的機構ともいうべき世界シオニスト機構であった。

 そして世界のユダヤ人の「狩り込み」の武器とされたのが一九五二年の「身分法」、さらに一九五四年の「帰還法」である。

 しかし、ユダヤ人がイスラエルに入国した途端、「帰還法」のお蔭でイスラエル人の国籍を与えられることは、全く独善といわざるをえない。例えば、ユダヤ人のリチャード・バートンと結婚し、ユダヤ教徒に改宗したエリザベス・テイラーがイスラエルに行けば、直ちに市民権を与えられ、その祖先が原始のカナン人までさかのぼるパレスチナ人よりも、パレスチナ国土において市民としての政治、教育等一切の権利をもっということになってしまうのである。

 アメリカの国務省は、原則的には、「ユダヤ人の国籍という概念は、国際法において無効である」という解釈をとっているにもかかわらず、アメリカはイスラエルにたいし様ざまな特権を与えている。

 アメリカではシオニスト機構によって一般のユダヤ人から半ば強制的にイスラエルヘの基金募集が行なわれているが、こうして集められた金額は非課税所得とみなされている〔これらの基金は実際には、イスラエルのユダヤ人のためというよりシオニズム運動のために使われている〕。

 またイスラエルがアメリカから与えられているものに特殊な二重国籍の問題がある。長年にわたる市民法によって、外国の選挙、軍隊、政府に参加したり、勤務したアメリカ人はその市民権を失うことになっていた。しかし、最近の最高裁の判決によれば、イスラエルにおいてはアメリカの市民権を失うことなく勤務することができるものとしている。

 しかし実際には、世界のユダヤ人の多くは、いまでもイスラエルが唯一の祖国だとは思ってはいない。

 アメリカの例をあげてみよう。

 アメリカ・ユダヤ教協議会の前副会長のラビ・エルマー・バーガー博士によれば、五五〇万人といわれるアメリカのユダヤ人のうち、シオニストでも反シオニストでもないユダヤ人は五〇〇万人もいるという。現に別名「ジューヨーク」とも呼ばれる程ユダヤ人の多いニューヨークのブルックリンの裏街の貧しいユダヤ人でも、イスラエルに行きたがらないし、ヨーロッパの場合はECの成長につれて、ユダヤ人でも能力があればそれぞれの技能に応じた職場につけるような環境ができている昨今、ヒトラーの悪夢のまだ色濃く残っていた時代とは違って、イスラエルに移住するどころか、逆にイスラエルからの逆移住のケースが多い。一九六七年の中東戦争前はこの傾向は著しかった。

 こうしたシオニズムにとっての最大の脅威は、本文にもあるように、ユダヤ人の”同化”であり、このことがシオニズムを他のユダヤ人の幸福を犠牲にすることすらあえて辞さない、目的のためには手段を選ばぬ非人道的思想としてしまっている。

 例えば、イスラエル建国後もイラクのユダヤ人はイスラエルに行きたがらなかった。しかし、一九五〇年に突然イラクのユダヤ教会が爆破されて、ユダヤ人たちは恐慌に陥り、イラクで反ユダヤ主義が広がると噂が流された。ユダヤ人たちは先を争ってイスラエルヘ逃げ出した。あとで、この爆破事件は、実はイスラエルから送られた秘密の使者の手によることが明らかになった。

 なお、シオニストの道義的頽廃については第7章を参照されたい。

 イスラエル国内の東洋系ユダヤ人が様ざまな圧迫を受けている事実やイスラエル国内のアラブ人を差別、迫害するアパルトヘイト政策〔第8章〕は、イスラエルにこそ「ユダヤ人問題」が存在することを有力に物語るものであり、イスラエル建国が「ユダヤ人問題」の解決どころか逆の作用を行なっている何よりの証拠といえよう。

3.シオニストの植民地開拓

〈解説〉パレスチナ入植とシオニスト左翼

 一八八一年のロシアにおけるユダヤ人圧迫の悪法「五月法令」が発布された翌年に始まった第一回のアリア〔移民〕が行なわれたのに続き、ポグロム〔ユダヤ人虐殺〕が行なわれた一九〇四年の第二波アリアのあと、一九一九、一九二三年、一九三二年と第三、第四、第五のアリアが行なわれ、一九三三年以後のナチの抬頭によるユダヤ人の大量移民へと引きつがれていった。

 しかし、パレスチナにおけるシオニストによる植民地開拓は、並の植民地とは本質的な相違点をもっていた。それはパレスチナを「ユダヤ人だけの国家」につくり変えてしまうために必然的にパレスチナ人の追放を前提とするものであった。ましてや前章でも明らかなように民族形成の歴史的基盤をもたぬユダヤ人にとって、この植民地開拓は「幻の民族」を人工的に培養し、「国家」と「民族」ばかりでなく、「労働者」と「農民」をもまた新たにつくり出さねばならなかった。

 アラブ人をパレスチナの土地から永久に追放しようとするシオニストの政策は、本文でもみられるように、一九二九年八月、チューリッヒで採択されたユダヤ機関の綱領にも反映され、ケレン・ケエメット〔ユダヤ民族基金、一九〇一年創立〕、ケレン・ハエソド〔パレスチナ財団基金、一九二〇年創立〕の借地契約の中でも「慎重にアラブ人の労働者をボイコット」し続けることが明記され、一たん入手した土地は絶対にアラブ人に渡さないという政策が終始貫かれてきた。

 このようなアラブ人労働者の追放と植民地開拓に力のあったのが、シオニストの左翼といわれた”社会主義者”によるキブツであった。

 このキブツは植民地を築き、利潤追求という採算を度外視し、遮二無二、新しい移民を吸収し、彼らの個人的犠牲のもとに、アラブ人の暴力的追放によってつくられた敵地の中の根拠地を拡大してゆこうとするものである。

 このことは、いわばかつての満蒙開拓団のように、自衛力をもつ軍事セツルメントとしての役割をもたざるをえなかった。最前線基地の国境防備をかねたキブツには屯田兵にあたる「ナハル」として武装開拓青年活動が展開されている。

 こうした領土の拡大と武力によるその防衛といった役割を担っているからこそシオニズムの諸機構が、マパイ、マパム、ヘルートなどの政党の差を超え、キブツに財政援助を与えているのである。

 さらに一九二〇年に社会事業団体としてできたヒスタドルートは、名前こそ労働組合総同盟とうたっていても、その本質はアラブ人の排除というシオニズムの政策遂行の先兵に外たらなかった。

 こうした「労働者、農民づくり」は、二〇世紀初頭のロシアのシオニストの理論家、ボロチョフの「階段理論」に立脚している。彼の理論によれば、それまでのユダヤ人の社会構造は知識階級や中産階級が多く、労働者農民が少ないという逆ピラミッド型であった。ベン・グリオン、エシュコルニフボンなどシオニストの社会主義者が、パレスチナにおける植民地開拓に力を入れ、キブツ、モシャブさらにヒスタドルートの建設に努めたのも、ユダヤ人プロレタリアートを創り出そうというボロチョフの理論に基づくものであった。

〈解説〉誇張されたユダヤ系経済の優位

 パレスチナ武力抵抗運動が始まるまでの長い間、シオニストに操縦された世界のマスコミは、パレスチナ人の存在を故意に抹殺したり、”無気力な難民”として描いたり、怠惰な人種なのだと宣伝につとめてきた。

 しかし、本文のシンプソン報告や多くの識者の一致した見解は、パレスチナ人は決して怠惰でも無気力でもなく、それどころか、世界の中で最も勤勉で、道徳心が高く、かつ教養ある人びとであるとしている(第8章参照)。その彼らが、失望感にひたった生活をしていたとしても、その主たる責任は、腐敗したスルタンとそれに続くイギリスの植民地政策によるものであった(シオニストがその交渉相手にしていたのは、スルタン政府とイギリス)。

 さらにベイルートのアメリカ大学のユーセフ・サイエグ教授は、一応パレスチナにおけるシオニストの経済は、アラブの経済よりも進歩した(少なくとも生産量の大いさについては)ものだったことを認めているが、このことの内容を次のように説明している。

 シオニストたちは、ユダヤ国家建設のために必要な労働力、軍事力の源泉として、成年男子に移住の特典を与えていたため、アラブ人とユダヤ人の人口構成は後者がはるかに生産的なものとなった(一九四八年の移民の八○%は一五歳から六〇歳の適齢世代の人びとだった)。さらに彼らは、ヒスタドルートを通じて職業訓練をほどこし、豊富で良質な労働者を生み出して、一方では外国援助により豊富な資本を獲得し、それを大規模な投資にふり向けていった。さらに、イギリス委任統治政庁からユダヤ人に与えられた様ざまな特典もあった。かくて、農業においても工業においてもユダヤはその優位を増していったのだが、この優位も決してシオニストの宣伝するような楽天的なものではなく、純所得は投資の大きさに比例して大幅に減少する有様だった。その上、この間にはアラブ人の産業も拡大していたのであって、その伸長度においてはユダヤ系産業に劣るものではなかった。

 また委任統治期間にユダヤ人の手によってパレスチナの経済が発展したという主張もあるが、ユーセフ教授は、同期間の国民所得の統計を吟味し、その名目的所得の上昇が、実はインフレ価格、戦時中の価格統制とそれに伴うヤミ価格によって大きく歪曲された値であることを指摘している。

 したがって実際には、ユダヤ人もパレスチナにおいての生活はバラ色ではなく、例の「奇蹟的な緑のパレスチナの誕生」などはありえなかったといえるのである。すべてを美辞麗句で粉飾するシオニスト一流の宣伝は、ユダヤ人自身を含めて、全世界的にかなりの効果を発揮しているとはいえ、このような世論政策の影には暴力的な土地の奪取やテロによるアラブ人の追放などがあったことが同時に想起されねばならない。

4.一九四八年以前のパレスチナの低抗運動

〈解説〉アラブの目配めと独立運動の挫折

 もともとパレスチナは四〇〇年にわたるオスマン・トルコ統治下、「南部シリア」として知られ、北はベイルート州、南はエルサレム県からなっていた。

 かつてのアラブ諸王朝の都であったダマスカス、バクダッド、カイロなどに近かったパレスチナが、アラブの輝やかしい歴史的遺産を受け継ぎながら近代における民族運動に率先参加したのも不思議ではない。

 中世、東西を結ぶ商人として海路、陸路に活躍したのはイスラム教徒であり、イスラムの伝播につれて普及していった彼らのアラビア語は当時の国際的商業用語であるといわれていた。

 一八世紀の半ばには、アラビア半島に近代における最初のアラブの目醒め上もいうべきイスラムの純粋性を守ろうとする熱烈なイスラム改革のワッハーブ運動が始められた。

 またアラブにたいする西欧諸国の最初の衝撃となった一七九八年のナポレオンによるエジプト侵攻によって、近代ヨーロッパとアラブの新たな交流の幕が開けられ、イスラム世界をめざめさせ、その発展のエネルギーを生み出した。

 中世紀以来のカトリック宣教師との交流が進められてきたレバノン地方では、一九世紀になってから、さらにプロテスタントの宣教師がこの地域の教育、文化の普及に努めたが、彼らはこれらの学校での教育にアラビア語を使用したため、それがアラブの文芸復興運動を発展に導いていった。

 一八四七年、ベイルートにキリスト教徒アラブ人のナシフ・ヤズィージィやブトルス・ブスター二といった知識人による文学・科学協会が結成されるにいたり、一八五七年にはパレスチナ人を含むイスラム教徒のアラブ人によってシリア科学協会もオスマン・トルコの支配下に秘密裡に設置されている。ベイルートのアメリカ大学は一八六六年に、数年後にはカトリック系の聖ヨセフ大学なとが建てられた。

 一方、トルコ社会への西欧文化の流入によって高揚したトルコ人の民族主義運動と並行し、スルタンヘの絶対主義的圧制や西欧の植民地的侵略への抵抗運動も発展を遂げていった。とくに、一九〇八年の青年トルコ運動の拾頭やウィルソン大統領による従属諸民族の民族自決の権利をうたった一四ヵ条の原則などがアラブ民族運動に刺激を与え、一九一四年にオスマン・トルコ軍のアラブ青年将校でエジプト人のアジーズ・アリの「アル・アブド」、アラブ諸国の独立やスルタン専制の廃止を求めた「青年アラブ」などの地下運動が展開された。

 第一次大戦中、アラビアのローレンスで知られる砂漠の反乱には、ダマスカスを中心とした、シリア・パレスチナの多くの民族主義者が参加した。一九二〇年三月、ダマスカスでメッカのシュリーブ・フセインの三男ファイサルを擁立し、四〇〇年にわたるトルコの支配を離れアラブ王国を宣言させたのも、独立を求めて秘密結社をつくって活動を続けてきたアラブ民族主義者であった。

 しかし、大戦が終了すると、この地方を自国の勢力範囲下におこうとするフランスとイギリスのサイクス・ピコ条約によってアラブの要求は犠牲にされ、一九二〇年七月、サン・レモ会議でシリア、レバノンを委任統治下においたフランスは、アラブの独立運動を武力で鎮圧し、ファイサルは追放された。こうしてシリアの民族運動は反トルコから反仏に発展し、軍政廃止を要求する運動はその後も長く続けられた。

 イラクでも、イギリス、イラク双方に一万人の死傷者を出す民族的反乱が起り、一九二一年、カイロ同盟条約によって、シリアから追放されたファイサルを国王とするアラブ政府をつくらせる原動力となった。

 また一九二一年、フセインの次男、アブドゥーラ王子は、ダマスカスのフランス軍を攻撃するためヘジャーズからトランスヨルダンに入った。イギリスは、アブドゥーラがフランスを攻撃しないという条件で、アブドゥーラのトランスヨルダンにおける主権を認め、一九二三年、この地域をイギリス委任統治下の自治国とし、一九二八年には、イギリスが財政と外交を担当することとしてトランスヨルダン王国が誕生した。一九四六年にはイギリスと同盟条約を結び、独立主権国家となり、中東地区最強のアラブ軍団とイギリスの軍事基地をもち、財政の半分をイギリスに依存するカイライとなってその石油権益を守る役割を果してきた。

 しかし、第二次世界大戦後、ヨルダンの財政負担に堪えられなくなったイギリスにたいしてアメリカが肩代りすることにより、その中東支配の道具として利用されている。

 今日のヨルダンによるパレスチナ革命の圧殺という役割もこの国家の成立の経緯からも容易に導かれるものである。

〈解説〉パレスチナ抵抗運動の足跡

 ユダヤ人が一九世紀の終りにパレスチナにやってきたとき、その最初のユダヤ人たちはヨーロッパやロシアにおける迫害の犠牲者あるいは聖地への”巡礼”としてむしろ暖かく迎え入れられた。

 一九一九年の一月、ワイズマンとファイサルは、バルフォア宣言の履行をうたった文書の中でユダヤ人の移民への協力を誓ったのもファイサルがイギリスから「大シリア王国」を獲得しようとするための譲歩であるとはいえアラブの寛容性を示すものであった。ヘルツル自身も第一アリアの移民にたいする「住民の友好的態度」を記録している(質問44注18参照)。

 しかし、パレスチナにずかずか入ってきたシオニスト・ユダヤ人たちはワイズマンがいっていたようなパレスチナ・アラブ人に恩恵をもたらすような種類の人種ではなかった。暴力によるパレスチナ・アラブ人の追放というシオニストの野望が知られるようになるにつれて、当然のことながらアラブ人の烈しい抵抗にあった。

 このことは、本文にもあるように、相次いで発生した騒乱のあとに派遣された使節団が「ユダヤ人国家」の創設はパレスチナ住民の権利と両立しないと異口同音に報告し、その度にイギリスの本国政府を動揺させたのである。以下その歴史を簡単に振り返ってみよう。

 一九一九年、ウィルソン米大統領から派遣されたキング・クレーン委員会は、現地におけるアラブの独立要求の声に大きく影響され、ユダヤ人の移民の明確な制限、パレスチナをユダヤ人共和国にする計画の放棄、パレスチナの統一シリアヘの包含などを講和会議に勧告した。

 一九二一年には、ユダヤ人の不法な移民に抗議して、反乱が発生、全面的なストライキが勃発し、パレスチナ・アラブ人会議は、バルフォア宣言こそ、ユダヤ人の大量移民の原因だと抗議文を送った、ユダヤ人、アラブ人に多くの死傷者を出したこの反乱に驚いた初代高等弁務官ハーバート・サミュエルは、ユダヤ人の移民中止を発表した。調査にあたったヘイクラフト委員会は、この暴動の原因をイギリスのユダヤ人優過政策とシオニストの権力拡張とし、イギリスの上院は、バルフォア宣言の廃棄を可決、辛うじて下院で否決されるほどであった。

 一九二九年、数百人の死傷者を出したエルサレムの嘆きの壁事件の直後に派遣されたショウ委員会もユダヤ人移民の管理を強く要求し、さらにホープ・シンプソン委員会も、もはやユダヤ人を受入れる余地はないことを報告し、翌一九三○年、イギリスはパスフイールド白書を発表、ユダヤ人移民の制限とパレスチナにおける自治制度確立を勧告した。

 しかし、一九三二年のナチス・ドイツの抬頭によってヨーロッパを追われたユダヤ人の移民は急激にふくれ上り、一九三三〜三五年の三年間には一三万三三〇〇人と激増した。アラブ諸政党は、(一)民主主義議会の設立、(二)ユダヤ人への土地の売却の禁止、(三)ユダヤ人の移民の中止を呼びかけ、発生後六ヵ月続いた一九三六年の歴史的な民族的反乱に発展し、同時に、隣接諸国からのアラブの義勇兵も参加した。このときその鎮圧に手こずったイギリスは、公然とユダヤ人の武装訓練にとりかかったのである。

 一九三六年には、エルサレムの大司教ハジ・アミン・エル・フセイニを指導者とする、主に民族資本家や地主の連合体であったアラブ高等委員会が結成された。

 またこの大反乱のあと派遣されたピール委員会が、始めてアラブ・ユダヤ両国家という分割案を勧告したが、このときにユダヤ人国家に割当てられたのは、実際の所有の五・四%を遙かに上廻るパレスチナの四分の一の面積であった。一九三七年開かれた汎アラブ会議は、この案を断固拒否、またも大規模な反乱が発生し、多数の死傷者を出すにいたった。

 一九三八年のウッドヘッド委員会は、実効的な分割案は不可能と報告した。一方、パレスチナの反乱もイギリス軍の力でようやく鎮圧された。

 しかし、戦争がヨーロッパで拡大されるにつれ、イギリスは一九三八年、ロンドンの円卓会議で事態の収拾を企てたが失敗し、ついに一目も早いパレスチナ間題の決着を迫られ、一九三九年五月マクドナルド白書を発表した。これはアラブ・ユダヤの二民族共同国家の樹立と人口比におうじる立法議会をもうける、ユダヤ人の移民は今後五年間に七万五〇〇〇人とし、それ以上の移民はアラブ人の合意なしには許さぬというものであった。これによってユダヤ人の反英テロ活動が激化したのである。

 一九四五年には、アラブ諸国の団結、独立の強化、法制、通貨、教育の二元化と関税障壁の撤廃などをめざすアラブ連盟が結成された。

 一九四六年には米英合同調査委員会が現地を視察し、ナチス・ドイツの迫害を逃れたユダヤ人難民一○万人の即時受入れを勧告したが、イギリスのベバン外相は、現地での抵抗は必至として反対した。ベバンは「アメリカはユダヤ人を入国させたくないのでパレスチナヘの移住をすすめている」と拒否した。しかし、イスラエルの反英テロとアラブの抵抗運動に直面し、イギリスは一九四九年の国連第二回総会でパレスチナ委任統治放棄を表明した。

 そして、国連でのパレスチナ分割案を強引に通過させるにあたって、アメリカ・シオニストの共同戦線は、「ユダヤ人の票」と「パレスチナ」との取引を国際的権威でとりつくろうために国連を盛んに利用したのであるが、それはかつてイギリスとシオニストの共同戦線によって国際連盟を利用したのと同じであった。

〈解説〉委任統治政庁の果した役割

 見落してはならないのは、「ユダヤ人国家」の創設に果したイギリス帝国主義の役割である。

 委任統治の三〇年の歴史の中で実現されたユダヤ人の大量な移住は、イギリスの保護なしには到底考えられないものであった。もし、かりに、アラブ諸国が独立していたなら、アラブ人の永久的追放を意図する絶えざる異民族の移住を許すことなど考えられなかったし、一方、シオニズムの指導者たちの側でもイギリス政庁の果す役割を深く認識しており、イギリスのパレスチナにおける警察力増強を歓迎し、高等弁務官の権威を弱める住民組織の結成をめざすような動きにはことごとく反対したのであった。

 例えば、イギリス政庁はユダヤ機関の要求にーつとめて協力し、ユダヤ機関は国土の天然資源の特許の権利、エルサレムを除いた電気の特許権、灌激の特許権、カリウムや他の鉱物を採掘する死海における特許権などを手に入れた。また、三〇年の委任統治の間に、シオニストの入植地は一九一七年当時よりも一二倍となり、その人口は三分の一を占めるまでにいたっている。

 事実、イギリス政庁は、委任統治時代、ユダヤ人の入植者がまだ少数でしかなく、その軍事力が劣勢であった間は、パレスチナ・アラブ人の軍事支配の任にあたっていた。ハガナを正規軍なみの軍事力に訓練、成長させたのもイギリスであった。

 一九三六年から三九年まで闘かわれたシオニストと帝国主義に反対するパレスチナ人民の大反乱は、当時のイギリス帝国主義軍隊の三分の一を巻込むほどの規模に発展し、アジア・アフリカ諸国の民族独立運動の中に不滅の金字塔として記憶される歴史的反帝国主義運動であったが、この大反乱がイギリスの手で最終的に鎮圧された以後は、シオニストの入植は、イギリス当局の援助をえなくても実行することができるようになったのである。

 パレスチナ分割案が国連で可決され、イスラエル建国につづく一九四八年のパレスチナ戦争に、この国土の真の主人公のパレスチナ・アラブ人が参加できなかったのも、すでに委任統治時代にイギリスによってパレスチナ人民の絶滅作戦が行なわれたためである。イスラエルの軍事評論家は、今でも、もしパレスチナ人民がこの戦争以前にイギリス当局によって軍事的に解体されていなかったなら、あの戦争の結末がどうなっていたかは判らぬという疑いを捨てていないといわれている。

 このように小国を餌食にして意にかけたい帝国主義のやり口を、サミ・ハダウィ氏は次のように評している。

 

 「一九一七年にイギリス政府は、アメリカの参戦を獲得するためにパレスチナを売り、一九四八年には戦後のイギリス経済への借款を得るために、パレスチナ・アラブ人の追放といった事態を生みだして再びパレスチナを売り、同時にアメリカの政治家は『ユダヤ人の票』ほしさにアラブ住民を売った。」

 一九四八年のパレスチナ戦争で敗戦したシリア、エジプト、イラクなどアラブ諸国の軍人は、敗戦の原因をアラブ社会の後進的な政治形態にあるとし、戦いから帰ると自分たちの国の変革にのりだした。「本当の戦場はエジプトだ」という自覚を抱いたナセルたち「自由将校団」はやがて一九五二年七月二三目、ファルーク王朝を倒してエジプト共和国を樹立した。

5.パレスチナ人の追放

〈解説〉分割案の既成事実化めざす

 一九四七年一一月二七日、国連が自らの原則を蹂躙して、全くシオニストの筋書によるパレスチナ分割案を勧告したことは、シオニストの大勝利であった。

 シオニストにとってこの分割案こそ国連という国際的権威を”隠れみの”としてパレスチナの国土の大部分を大多数の住民の意志を全く無視したまま略奪できる方法であったからである。

 この分割案によって、ユダヤ人の国家に与えられたのは、パレスチナの五五%の国土であった。それまでに一八八○年から一九四七年までかかって七%ほどの土地しか購入できなかったのに比べれば、この五五%という数字はまさにそれ以前の八倍の領土を一挙に獲得したことになる。

 しかもこの分割案では、灌漑できる土地の八三%を含む海岸地帯や高原地帯の肥沃な土地がユダヤ人国家に与えられ、またアラブ人の工業の約四〇%は「ユダヤ人国家」に割当てられる反面、ほんの僅かのユダヤ人工業が「アラブ人国家」に残されるという、いたれりつくせりの分割案であった。

 しかし、シオニストにとっては国連分割案の可決もまだ紙の上での勧告案にすぎなかった。ベン・グリオンは、国連がその勧告を引込めないうちに、分割案を既成事実としてしまうために武力行動を励ました。

 はたせるかな、分割案の可決に激昂したパレスチナ住民の激しい反対運動に刺激されて、この国連パレスチナ分割案を一たん通過させるのに全力を上げたアメリカ自身が、一九四八年三月二〇日に突然国連で分割案を放棄し、パレスチナの国連信託統治の提案を行なうという一八○度の方向転換を行なった。

 サミ・ハダウィ氏は、この不思議なアメリカの豹変は、国連での討議がパレスチナ問題のもつ重要性に慎重な考慮を払っていなかったこと、アメリカ国内の政党政治の道具に供せられていたことによるものであるが、それはパレスチナ人が新たな事態のもつ意味に気づき、その陣容の整備にあたる以前に、シオニストたちにパレスチナを奪取させてしまうことを意図し、けしかけたと指摘している。

 イギリスの委任統治が終る五月一五日には無政府状態が生じ、アラブ諸国の軍事介入も予想されるこの時期までに、イスラニルの軍事力による既成事実をつくり出す必要に迫られたのでいよいよパレスチナ人の追放は至上命令となったのであった。

 その具体的現われがダレット(D)計画であった。この計画は、国連がユダヤ人に割当てた地域ばかりか、その外部の地域を支配すること、五月一五日後のアラブ軍隊の起こりうる侵入に対抗することを目標とした。

 六週間後の五月一五日がそのタイム・リミットであった。

〈解説〉暴力と脅嚇による追放

 今日のパレスチナの悲劇をつくり出したこの略奪作戦の真相が知られるのを恐れたイスラエルは、繰返し彼らが勝手に出ていったのだと主張した。そしてパレスチナ戦争は、「独立」したイスラエル国家への不法なアラブ諸国軍隊の軍事的干渉にたいする戦争であり、ユダヤ人は「祖国」防衛のために必死の戦いをつづけ、ついに優勢なアラブ軍を追い払ったという神話をつくり出した。

 一〇〇万人といわれる悲惨なパレスチナ人を追い出したのは、軍事作戦と心理作戦を巧みに組合せたシオニストたちの脅迫によるものであった。一般にいわれるように難民の発生は、アラブ諸国の介入によるパレスチナ戦争の勃発によるのではなく、一九四八年五月一五目の委任統治終了時には、すでにDプランによって難民の半分に近い四〇万人のアラブ人をその家から追い出していたことによるのである。

 このDブランの中で最大の虐殺は、ベトナムのソンミ村の虐殺を上回るテイル・ヤシン村の惨劇であった。

 一九四八年四月九日の真夜中、エルサレムにほど近いテイル・ヤシン村は、イルグンとシュテルン・ギャングのラロ分子によって占領され、このあと無差別の虐殺が行なわれたっ二五四人の男、女、子供が屠殺され、井戸に投げ込まれたが、その間、国際赤十字代表は同村を視察するのに一昼夜待たされた。生き残った村民はエルサレムを引き廻された。

 イスラエルのアイヒマンとも呼ばれているメナヘム・ベギンは、「この虐殺は、正当づけられているばかりでなく、テイル・ヤシンでの勝利がなかったならイスラエル国家は生れなかっただろう」と評価したが、アラブ人の軍隊とは一切関係をもたず中立的だったといわれたテイル村のアラブ人の惨殺は、明らかに他のアラブ人の間に大恐慌をつくり出すための心理作戦だったのである。

 一九二〇年に創設されたハガナはその後、ユダヤ人移民の増大につれて次第に強大となったが、一九三七−八年にはイギリスのウィンゲート少佐の訓練を受け、一九四七年当時には、常備電撃軍パルマハを含めて約六万とみつもられていた。他の分派、イルグン・ツバイ・レウミは三〇〇〇から五〇〇〇、シュテルン・ギャングは二〇〇から三〇〇であった。

 一九六七年のいわゆる”六月戦争”後、イスラエルの領土はそれ以前の四倍半の領土を新たにかかえこみ、一〇〇万人のアラブ人がその占領下に入ることになった。六〇万人がヨルダン川西岸地区、三五万人がガザ、三万三〇〇〇人がシナイ半島、六、 四〇〇人がゴラン高原にいる。

 しかし、ここでもイスラエルは、”問答無用”とばかり、家屋の破壊、投獄、拷問、戒厳令、集団懲罰、通行許可制など凡ゆる手段をつくしてパレスチナ人の追い出しを計っている。

 とくにその中で最も強大な抵抗の基地になっているのはガザ地区である。僅か一〇〇平方マイルの地域に三五万人のアラブ人が住み、地域自体が一種の”収容所”の観を呈している。

 これらすべては、一般市民の保護を規定した一九四九年のジュネーブ国際協定に違反するものとして、国連から占領下のアラブ人民の人権を調査したいと再三イスラエルに調査団の入国を求めているがイスラエルは頑強に拒否しつづけている。一九七〇年一二月の国連総会で圧倒的多数でイスラエル占領下におけるアラブ人の人権侵害が糾弾された。

6.占領地域のアラブ人

〈解説〉軍政による抑圧

 一九四八年九月のパレスチナ戦争終結後も、イスラエル国内に残ったアラブ人は、約一六万人、現在では自然増加によって約三〇万人に達している。

 しかし、シオニストたちは、一九四八年の独立宣言の中で白々しくも次のように言明した。

 「イスラエル国は、イスラエルの預言者たちが夢想したような、自由、正義、平和に基礎をおくものとする。全市民の社会的、政治的権利は、信教、人種、性別による差別はなく全く平等とする。」

 そして彼らは、世界の眼をパレスチナ難民にそそがせている間に、パレスチナの完全なイスラエル化を目標にこれらイスラエルに残ったアラブ人の土地を着々と没収した。それはアラブ人の土地の八○%に達している。

 イスラエル創設の最初の一〇年間、イスラエル当局は、もっぱら軍政の施行を通してアラブ人にたいし厳しい抑制や圧迫政策をとり、必要とするアラブの土地をことごとく没収し、続々移住してきたユダヤ人を定着させた。

 本文にもあるように、不在地主法(一九五〇年三月)と土地取得法(一九五三年)など一連の悪法は”土地の収奪を合法化するため”につくられた法律であった。かくて、イスラエル建国当時、一七五万ドナムあったアラブ人の土地は五〇万ドナムに縮 小されてしまった。

 しかし、六〇年代の初頭には、イスラエル政権は、少し戦術を変え、アラブ人との関係を改善するためにアラブ人への抑圧をやや緩めたが、その狙いは、イスラエル当局に協力し、シオニズムの政策に服従しないアラブ人と対抗する裏切り分子を支援するなど、いわば「分割支配」のアメとムチの政策であった。

 現在、イスラエルに住むアラブ人は邪魔ものの第二級の市民として、その九〇%は軍政に基づく、悪名高い南アフリカのアパルトヘイト(人種隔離政策)にも通じるような治安地域の中に、いわば”外国人”として住まわされているのである。

 では、このようなアラブ人への一切の抑圧手段として用いられた軍政とはどんなものであろうか?

 この軍政制度は、イスラエルが創設されてから強大な権力をふるってきたのであるが、もともとこうした軍政制度は、一九四五年当時のイギリス委任統治政庁の国防法(非常事態法)と一九四九年六月のイスラエルの国防関係法(治安地域)に基づいている。イギリスによる国防法は、かつてユダヤ人の移民制限から反英テロ活動を行なったイルグン、ツパイ、レウミ、シテュルンなどユダヤ人の過激テロ分子を取締るためつくられたもので、今のイスラエルの指導的法律家たちは、この法律が制定された一九四五年当時には、これらの法律は、文明国には例のない、ナチス・ドイツにも存在せぬ悪法であり、市民の基本的権利を脅かすものとして反対したいわくつきのものであった。しかし、一たんイスラエルが建国されるとこのような法律を引継ぐことには、僅か一人を例外として、誰も反対しなかった。

〈解説〉奪われているアラブ人の基本的人権

 イスラエルに招待されたジャーナリストや知識人は、イスラエル政府がお膳立てしたお定りのコースを視察したあと「イスラエルに住むアラブ人の生活は、アラブ諸国内のアラブ人よりも”より豊かな生活”を楽しんでいる」という記事を書いている。

 たしかに、イスラエルのアラブ人の一部が、部分的に改善された面があるにしても、圧倒的大多数のアラブ人の基本的人権は守られていないし、その社会生活面でも多くの差別を受けている。

 第一、イスラエルはその建国の根拠を国連分割案にもとめているが、その分割案では「すべてのものに市民的、政治的・経済的問題での平等がつ無差別の権利と人権や基本的自由の享受を保証」しており、「人種、宗教、言語、性別を基礎に住民にたいする差別はしない」とうたわれていたのであった。

 また、ベン・グリオン自身、かつて一九四六年の米英調査委員会にたいし、「われわれは、アラブ人や非アラブ人を平等に扱い、アラブ的性格、言語、生活の維持もとくに生活水準の向上に凡ゆる努力を行なう」とのべている。

 しかし、これは全くのごまかしである。その「平等」の扱いがいかに出鱈目であるかは、広河隆一著『ユダヤ国家とアラブ・ゲリラ』にも登場するイスラエル国内に住む弁護士のサブリ・ジュリス氏が凡ゆる弾圧にひるまず書いた『イスラエルのアラブ人』が一九六六年に発表されてからやっと明るみにでるようになった。

 農民にたいする苛酷な差別や仕打ちも、農民を土地から追い出し、その土地のあとにユダヤ人の移民を入植させてしまおうという政策であり、こうした土地をすてて、都会に流入するアラブ労働者の数は増えている。五万四〇〇〇人のアラブ人労働者のうち、三万七〇〇〇人が出稼労働者で、その多くは、一週間あるいは一ヵ月に一度家に帰ることができるにすぎない。

 こうしたアラブ人労働者にたいしてヒスタドルート〔イスラエル労働総同盟〕(第4章参照)は、アラブの労働者は非組織労働者だから、非組織労働者の雇用に反対して闘うのは労働組合の義務だと理窟にならない理窟をつけてアラブ人を締め出してきた。この組織はユダヤ人の労働者をつくり出すのが目的であったため、アラブ労働者を加入させることなどおよそ問題にはしていなかったのである。

 こうした差別は、教育の分野でも同じである。その教育政策は一貫して、アラブの民族的教育を抑圧し、アラブ人としての自覚を喪失させようと努めてきている。

 宗教上の聖地にたいして、狂信的青年によるエルサレムの回教寺院・ユル・アクサ放火事件や、三大宗教の聖地エルサレムの現状を勝手に変更し、サンフランシスコのような近代都市に切換えようとしているなど、国連総会や安保理事会の一致した非難を尻目にこの聖地の美しさ、神聖さを破壊している。

〈解説〉憲法のない「民主主義の砦」

 「イスラエルは、自由と責任ある政府に基礎を置く議会民主主義」であるとイスラエル政府の年鑑はうたっている。

 しかし、この「民主主義の砦」イスラエルには憲法は存在しない。その最大の理由は、憲法を定めた場合は一九四七年の国連分割案でさえもうたっている「人種、宗教、言語、性別を基礎に住民を差別はしない」ことを明記せねばならず、明記すれば、厄介者のアラブ人や最近、西欧系ユダヤ人との平等の権利を強く要求し始めた東洋系ユダヤ人、なかんずくイスラエルの黒豹党と呼ばれる青年たちに有力な法的根拠を与えるのをおそれているからだといわれている。もっとも流石のイスラエルもこの憲法の不在が気になるのか、”基本的人権法”は「目下準備中」だとのべているが。

 イスラエルに往むアラブ人の立場は、丁度ナチ・ドイツにおけるユダヤ人の場合のように政治的権利は否定されている。アラブ人は何らの人身保護も受けていない。軍政府はいつでも最高裁の決定を無視することができる。カフル・バラム、ガビシーア、アクラトなど数え切れない多数の村落の例が示すように、アラブ人が最高裁にこのことを提訴し、最高裁がアラブ人の主張を支持する決定を出したとしても、軍隊は”治安””防衛”のためという理由で、アラブ人の財産、家屋をダイナマイトで破壊してしまい、それを誰も阻止できないのである。

 こうした軍政府が施行する非常事態法は、一九六六年に一たん廃止されたが、一九六七年六月戦争後は、イスラエル当局によってアラブ人の取扱いは再び厳しくなった。

 表現の自由、出版、新聞の自由といったアラブの権利も最高裁で否定されているし、アラブ人は、戦前の日本の「治安維持法」のように逮捕令状なしにいつでも逮捕され、予防拘禁法に似た形で行動の自由を奪われているのである。

 さらに、ナチス政権下のユダヤ人が「ダビデの星」をつけさせられたと同様に、アラブ人の身分証明書(IDカード)の番号は8の数字で始められて、いつでもアラブ人と判るようにされているし、アラブ人の車のブレート番号は最初に六三〇がつけられていて、彼らの車だけは、検間所で取調べられる仕組みにされている。

 結論として、アラブ人はイスラエルの中では”外国人”として処遇されているということである。

 その証拠は、一九五〇年の「帰還法」や一九五二年の「国籍法」では外国のユダヤ人は、自動的に無条件で入国でき、市民となれるにもかかわらず、イスラム教徒やキリスト教徒はこの資格をもたず、市民になるためにはユダヤ人に帰化せねばならぬとしている。

 しかし、帰化の認可を受けるためには、イスラエルの国土に生れ、過去五年以上住み永住権の資格をもち、ヘブライ語を十分知っていることを証明せねばならず、これが全部みたされたあとやっと申請できるが、最終的には内務大臣がその承認を決めることになっている。

〈解説〉集団虐殺者はいずれも栄転

 ここに紹介されているカフル・カシム村の集団虐殺事件の当事者が国をあげての恩赦を受け、その後栄転させられたという事実から、私たちがすぐ連想するのは、ベトナム戦争におけるソンミ村のカリー中尉の事件である。共通して問われることは、罪のない村民を殺した者が、最後には国民的英雄にまつり上げられるという軍国主義の非人道性であり、こうした個々の集団虐殺事件を含む戦争を引起し、遂行する責任者としての国の指導者の戦争犯罪の問題である。

 イスラエルの場合、こうした虐殺事件の首謀者が、形式的に逮捕され、のちに国政に参与する要職についたという事件は枚挙にいとまがない。超近代的知能犯ともいえるラボン事件を計画したベン・グリオン、テイル・ヤシン村の虐殺事件の最高責任者で閣僚も歴任したガハル党党首、メナヘム・ベギンはもとより、「六日戦争」で勇名を馳せ、「弱い者いじめの英雄」とモシュ・メニューヒンから批判された国防相モシュ・ダヤンなど、みなヒューマニティに「挑戦」したお歴々である。

 一九四八年九月、国連調停官、ベルナドッテ伯を殺したシュテルン・ギャングのテロ団員も収容所にいる間に昇給されているし、その首謀者、N・F・イエリンはまもなく赦され一九五〇年には国会議員になっている。

7.イスラエル

(A)膨脹

〈解説〉”安定した国境”の確定恐れるイスラエル

 イスラエルは全世界の中で、唯一つ今もって国境を定めぬ特異な国である。

  一九四八年五月一四日、イスラエル国家が宣言されたその夜、国境を定めるにあたって激論が闘わされた際に、ベン・グリオンは次のようにのべている。

 「一例として、アメリカ独立宣言を取上げて見給え。そこには領土の限界など何も言われていない。われわれの国家の限界を述べる義務はない。アラブはわれわれに戦争を仕かけてきている。もしわれわれが勝てば、ガリラヤの西部地域とエルサレムヘの道路の両側にある領土は、この国家の一部となるだろう。なぜわれわれが自らを縛ってしまう必要があるだろうか。」

 ゆくゆくは「大イスラエル」と呼ばれる古代イスラエルの版図である「ナイルからユーフラテスまで」という「歴史的イスラエル」の夢の地図がイスラエルの国会議事堂の玄関にかかげられていることや、イスラエルの国旗にあるダビデの星の上下の水色の二本の線がナイルとユーフラテスであるなどという説は、シオニストの野望を裏付するものである。

 もう一つのエピソードをあげよう。一九六八年一月二二目号の「ニュ−ズ・ウィーク」は、ジョンソン大統領がエシュコル首相に「あなたは私に国境を保証しろと要求している。どの国境をあなたは私に保証してくれというのか?」と尋ねたと報じている。

 このように、イスラエル人にとってどれが国境だかまとまった意見なぞ初めから存在しないのである。

 事実、その膨脹主義も癌細胞のようにこれまで着実に拡がってきた。

 一九一七年のバルフォア宣言の、「パレチナにおける民族的郷土」は、次第に「パレスチナの民族国家」にかわった。一九四七年の国連分割案では、ユダヤ人国家はパレスチナの面積の五六%を占め、エルサレムは国際管理下に置くものとされた。それが、一九四九年の休戦協定ではアラブ人国家に割当てられた地域を含め八○%に増大し、さらに一九五六年のスエズ戦争では、英仏の侵略戦争の露払いの侵略を始め、国連による十数回の勧告のあとやっと撤退したものの、その代償としてチラン海峡を握った。さらに一九六七年の中東戦争では、イスラエル本土の四倍半の広大な土地を占領したことは承知のとおりである。そして、イスラエルの政府年鑑の地図では、強引にもこれらの占領下の領土を全部イスラエル領と同じ色に塗り潰している。

 現在、ロジャーズ提案に端を発した大国の圧力による平和提案も、イスラエルにとってかなり有利と思われるにもかかわらず、イスラエルが拒否し続けている原因の一つは、「安定した国境」が定められてしまって、その膨脹主義拒終止符を打たされはしないかという危惧に密接に関連している。

 このようなイスラエル政府の”居直り”戦術による膨脹主義と表裏一体になっているのは、世界のユダヤ人の”狩り込み”である。片道の航空切符と一人あての支度金五〇〇ドルまで払ってユダヤ人の”狩り込み”に狂奔するのも、国際世論からいかに糾弾されようと遮二無二強固な軍事国家をつくり上げてしまおうという意図に外ならない。

 しかし、今”狩り込み”の最後の大きな供給源である鉄のカーテンの国ぐに、とくに三〇〇万人のユダヤ人が住むというソビエトにしても、スターリン時代の反ユダヤ主義の名残りから移民を考えているのはごく少数にしかすぎないし、これまでイスラエルにやってきてその現実に失望し、また帰国する例もある。ソビエトからのユダヤ人脱出についての国際ニュースは、反ソ・キャンペインの一環として行なわれていることを忘れてはならない。ガザのある難民がAPの記者に語った「アメリカの通信社は、不確かなソビエトのユダヤ人問題を取り上げる一方、なぜガザで毎日のように繰返されているナチばりの迫害を報道しないのか」という非難の言葉はイスラエルの意図を鋭くついている。それに何よりも、五〇〇万人のアメリカのユダヤ人がイスラエルに行きたがらないのも致命的といえよう。

〈解説〉共通して反動的なシオニストの右派と左派

 最終的に「歴史的イスラエル」を目標とする膨脹主義的野望をもつシオニストの間に、穏健派だの過激派という区別はたいして意味がない。

 中東戦争が勃発した一九六七年八月、日本で開かれた社会党総評系の原水禁国民会議による被爆ニニ周年原水禁世界大会で、イスラエル代表の参加の是非が大きく問題となったことがあった。最初、国民会議事務局が、全世界の平和組織にはもれなく出すとの方針で、一たんイスラエルにも大会の招待状を発送してしまったが、その後、大会直前に国民会議の討議の結果、イスラエルをアラブヘの侵略勢力と規定し、すぐさま招待状の取消しを打電した。しかし、来日したイッハク・パテイシュ氏外一名の左派社会主義政党−マパム党代表はホテルで記者会見し、われわれは平和勢力だ、招待の取消しは国際的に前代未聞のスキャンダルだとすごんでみせたが、国民会議はマパム党であれ何党であれ、イスラエルの侵略戦争を支持する限り、戦争勢力に外ならないとその参加を認めなかったことがあった。

 歴史的な中国の国連加盟(代表権復帰)が近づいたときに狼狽して、中国との国交を開こうとする接触の任にあたったのはこのマパム党である。もっとも中国との国交を開くという観測球的ニュースは、中国の公式の発表によってはっきり否定されてしまった。

 事実、イスラエルの左翼を看板にするマパム党はスエズ戦争の開始を決定した連立内閣に参加したし、翌年一九五七年にイスラエルがシナイ半島から撤退を求められた時にも、これに反対して大衆デモを組織し、アラブ領エルサレムの併合にも賛成投票したのである。

 要するに、マパム党の原則は、ダヤンの承認のもとに、”海外向宣伝馬”として、”平和”をお題目のように唱えるだけで、イスラエル政府の経済政策には異議を申立てたことはないのである。

 イスラエルの”目玉商品”となっているキブツは、主としてマパム党によって組織されてきた。キブツそのものは、第3章でもみた通り、国境地帯の満蒙開拓団をしのばせる領土拡張の先兵に外ならない。またキブツは、外国の訪問者にイスラエルの「社会主義?」を見せつけるためのショウウィンドウとして利用されている一面ももっている。

 もっともこの一〇年間には、シオニストを右翼とか左翼に分けることに余り意味をもたないほどにその差がなくなりつつあり、理論的政治的あつれきは、経済的利益のつかみ合いに席を譲ってきている。

〈解説〉予定されている膨脹計画

 一九六七年六月の中東戦争によってイスラエルが新たに占領したエジプト、ヨルダン、シリアの領土も、結局はイスラエルがもともと予定した膨脹計画に基づくものに外ならない。

 第85問に紹介されているパリ講和会議へのシオニスト機構の提案を現在の地名で要約すれば次の通りである。

 一、パレスチナ全土。
 二、南レバノン チレ、シドンの町、ヘルモン山にあるヨルダン川の源流、リタニ川の南部。
 三、シリア クネイトラ、ヤルムク川、エル・ヒミハ温泉を含むゴラン高原。
 四、ヨルダン ヨルダン渓谷、死海、アンマン郊外に達する東の丘陵部。そこから南へ、ヘジャーズ鉄道に沿ってアカバ湾まで
 五、エジプト 地中海岸のエル・アリーシュから、南の方に直線でアカバ湾まで。

 こうした計画から判断できることは、イスラエルがゴラン高原を手離さないのは、この高地が辺境のキブツヘ攻撃基地になっているということよりも、農業集散地としてのクネイトラの占拠にあったことである。

(B)平和

〈解説〉「道義的優越」も一皮むけば道義的頽廃

 『日本人とユダヤ人』の中でベンダサン氏は、ユダヤ人は”政治的低能”だとへりくだっているがシオニストの宣伝活動にかんするかぎり、その”鷺”を”からす”といいふくめる手腕はウルトラC級である。

 例えば、日本人の多くを含む世界の大多数の人びとにたいし、これまでイスラエルは、敵意に燃え「ユダヤ人皆殺し」の”聖戦”を叫ぶアラブ諸国に囲まれた小国イスラエルというイメージを売り込むことに成功してきている。

 一九六七年の中東戦争の際のイスラエル版真珠湾攻撃という侵略戦争でさえも、アカバ湾を封鎖され、”生命線”を脅かされ自衛のために英雄的に立上らざるをえなかった犠牲者らしくみせかけた。そのアラブのABCD包囲陣(アルジェリア、バクダッド、カイロ、ダマスカス)に囲まれて祖国防衛の危険が叫ばれた訳である。

 しかし、イスラエル建国が土着のパレスチナ人を暴力で追放してしか達成されなかった以上、彼らの頼みにするのは、ナチスの宣伝相ゲッペルス顔まけの物量宣伝作戦にものを言わせるしか仕方がないのである。

 イスラエルのいう”道義的優越”なるものの正体も、ヒトラーばりの人種主義的占領者としての冷酷さ、堕落ぶりを遺憾なく発揮している。

 第7章Cの106問、註にもあるように、シオニストの指導者は第二次大戦中、ナチスと取引をして幾千人のシオニスト青年を収容所から内密に出所させ、アラブやイギリスと闘わせるためにパレスチナに送り込ませたのと引換に、アイヒマンに協力して幾千万の老人、婦人、幼児を火葬した。

 もう一つ例を上げれば、委任統治末期の何隻かのパレスチナヘの非合法移民の輸送船の末路である。一九四〇年一一月、イギリスの禁止を無視した非合法の移民船「パトリア号」は、イギリスの手でキプロスに送られるのを妨害するため、二五〇人の男、女、子供もろともハイファ港で沈没させられた。

 また一九四二年二月、七六九人の非合法移民を載せた船「ザ・シュトルマ」号も原因不明の爆発のために黒海で沈没した。これ以後、イギリスとアメリカにおける反政府宣伝活動は強化された。この二隻の船の沈没は、ユダヤ人テロ組織によるものといわれている。

 さらに一九四七年七月、老朽船「エクソダス号」は、最大の非合法移民四五〇〇人を積込んで、フランスのセテから出航したが、沖合に出てから船は当然海上封鎖中のイギリスの軍脇に制止された。これは、「エクソダス号」のエピソードを世界のマスコミに書きたてるための芝居であった。当時、国連の調査団がパレスチナにいたことも計算ずみであった。乗船していた移民はイギリスに抵抗し、絶望的な戦闘で三人が死んだあと、彼らはハイファで上陸させられ、三隻の囚人船でフランスに送還された。

 このようにイスラエルの道義的優越も一皮むけば道義的頽廃に外ならない。

 一九六八年三月三日、イスラエルの抑圧政策を非難した勇敢な市民たちによる「イスラエルと占領地域における人権侵害を停止させよ」というアピールの中にも「一つの国民による他国民の支配は、抑圧国民自身の道義的頽廃をもたらし、その民主主義を掘り崩すものだ。他民族を抑圧するいかなる民族もきっと自身の自由とその市民の自由を失うに違いない……ユダヤ人市民諸君、苦難の時代にわれわれの側に立つ勇気ある異教徒の人びとを思い出せ。今あの苦しみが、われわれの兄弟のアラブ人の身の上に振りかかっていることを。」と訴えた。

 これは、マルチン・ブーバー教授が、「……ユダヤ人たちの大多数は、われわれよりも、むしろ歴史は精神の道ではなく力の道を歩くと説いたヒトラーから学ぶことを選んだ」と嘆いたように「力は正義なり」の論理を真似ているのである。このような「中東の憲兵」としての軍事国家イスラエルの生き方は古代ヘブライの諺の「剣で立つ者は、剣で滅ぶ」ということにならないだろうか?

〈解説〉国連の質的変化とイスラエル

 イスラエルはもともと国連によって非合法的に生みだされたいわば人工国家であるにもかかわらず(第1章参照)、今では国連の勧告をことごとく無視しさり、国連の権威を失墜させるための最大の破壊活動を行なっている。

 このイスラエルの姿が連想させるのは、「満州国」をかってに創ったり、ヨーロッパの侵略に乗り出して国際連盟を脱退したかつての日本やナチス・ドイツや、ファシスト・イタリアなどである。ただ違うのは、アメリカというパトロンのお蔭でイスラエルは国連から制裁をうける心配なしに、国連の無力化のためその内部で傍若無人の振舞いを続けていられるという点である。

 ただ、一九七〇年末に国連が多数で「パレスチナ人民の民族自決の決議」を可決させたり、中国の国連加盟実現という国連の新時代を迎えている昨今、イスラエルの国連での座り心地も急速度に悪くなり始めている。

 一九六七年六月一九日の「ニューヨーク・タイムス」によるアバ・エバン外相の「もし国連総会がイスラエルの休戦ラインヘの復帰を賛成一二一、反対一で可決することがあっても、イスラエルはその決議に応じることを拒否するだろう」という強気の態度をこれからも取り続けてゆくつもりだろうか?一九六七年一一月七日の安保理事会でイスラエルの代表は、「安保理事会は”人民裁判”に変ってきている」と非難していたが、それは自ら犯した罪にたいする国際的指弾への恐怖心の一端をのぞかせたと考えられなくもない。

 一九七〇年末の「パレスチナ人民の民族自決権を支持する決議」が通ったあと、イスラエル代表は「国連は堕落した」と毒づいたことは前にも紹介した(第1章)。しかし、この決議が通過したあとでもアラブ・イスラエル紛争の調停役ヤリング特使は、この決議を全然考慮しない旨をイスラエルに通達している事実は、米ソを主軸にした平和解決の前途に横たわる暗い影をのぞかせる一つの問題を含んでいる。しかし、これまで国連をおおってきた「パクス・ルソ・アメリカーナ」は、中国の国連への登場によって、超大国の支配の道具に堕していた国連から中、小諸国の求める国際社会での正義の達成機関への脱皮の中でゆさぶり続けられてゆくことだろう。虚構の位置しか保ちえなかった台湾が、結局、国連から追放されたように、アメリカ帝国主義を主たる支えとするこの異常な人工国家は、いずれ国連において南アフリカ共和国、ローデシアなどと同様の制裁をうけるべきであり、それは国際社会の責任であるといえよう。

〈解説〉周到な事前計画による”報復攻撃”

 イスラエルの攻撃は、アラブのフェダイーン活動への報復だといわれているが、イスラエルがアラブヘの侵略を始める際に、どんな綿密な手段を講じているか?ここに間93にもある「カイロ裁判」――すなわち「ラボン事件」と呼ばれる「事実は小説よりも奇なり」を地でゆく怪談を紹介しよう。

 一九五三年、キビア村のアラブ人虐殺にたいする世界世論の圧力で、タカ派のベン・グリオンが政権の座から降り、穏健派のモシュ・シャレットが首相、ピンハス・ラボンが国防相となった。しかし、軍部を背景にしたベン・グリオンは当時の世界情勢、とくにアメリカとエジブトの友好関係を苦々しく思い、ラボンたちを出し抜いて、一九五四年一一月、秘密裡にカイロにいるユダヤ系エジプト人を動かしてアメリカ図書館や情報部、アメリカ系の商社、劇場などを爆破させて、エジプト・アメリカ関係を一挙に悪化させようとした。しかし、これらの一味は、一二月に摘発され、スパイとして裁判された。

 ベン・グリオンたちは、これはエジプトの「でっちあげ」と宣伝したが、確たる証拠と本人たちの自供によってこの陰謀は明るみに出されたが、しかしこの事件の裏にもっと大きな陰謀が隠されていたのであった。つまり、ベン・グリオンは、このカイロの爆破事件をラボンの仕業にしたて上げ、彼を国防相辞任に追込み、自ら国防相に返り咲くのに利用したのであった。ベン・グリオンの国防相再就任の一〇日目にガザヘのイスラエル軍の計画的襲撃が行なわれ、この事件の経験からナセルはソピエトからの武器購入に踏切ることなり、ひいてはスエズ運河国有化、さらにスエズ戦争へとエスカレートしていったのである。ベトナム秘密文書で曝露されたアメリカの戦争挑発に負けぬイスラエル版の侵略準備計画であろう。

 このように、イスラエルの襲撃は、政府や軍部の周到なプランによるもので、その大規模なものを上げるとフーレ(一九五三)、キビア(一九五三)、ナハリン(一九五四)、ガザ(一九五五)、チベリアス湖のシリア側居留地(一九五五)、ガザ地帯とシナイ半島(一九五六)、チベリアス湖のシリア側の村落(一九六〇、一九六二)、サムー(一九六六)である。また一九六五年までにヨルダンへの侵略で死傷者を出さなかったものを加えると六五二八回にー違したと国連休戦委員会にヨルダンの首席代表から報告されている。

 なお安保理事会でも非難された一九四八年九月一七日のイスラエルのテロ団による国連調停官ベルナドッテ伯の暗殺事件も忘れてはならないだろう。

 これにたいして、アラブ側の襲撃は、かつて幾百年も住みついていた自分の家に帰りたいという個人的なものが殆んどである。

 イスラエルによるこうした挑発は結局、長い目でみれば、反面教師の役割をもち、アラブの内部体制の改革、アラブの団結などに導く結果になっている。とくに二九六八年三月二四目のヨルダン川に近いカラメ難民村へのイスラエル軍の襲撃は、パレスチナの抵抗運動の一転換となった。

〈解説〉イスラエルの危機回避のための「六日戦争」

 俗に「六日戦争」と呼ばれたイスラエルの電撃作戦は、六日どころか今になってもなお紛争を解決するに至っていない。むしろドイッチャーの指摘する通り、イスラエルの不安定は一層不安定になり悪化したというのが実情である。

 では、イスラエルがこの第三次中東戦争を開始した当時、イスラエル国内でどんな事態が進行していただろうか?何がイスラエルを戦争に追い込んだのであったろうか?

 一九六六年には、第二次大戦後続いていた移民は一段落し、外国のユダヤ人からの経済援助も乏しくなり、ドイツからの賠償金の支払いも底をついて失業者が増大し、悪性インフレも発生していた。移民の方も、流入人口よりもむしろ成長をとげているヨーロッパ共同市場に流出する技術者、専門職の人口が上廻るという惨憺たる有様であった。政府への不満が高まり、デモも展開されていた。

 イスラエル政府は、この閉塞した状況から脱けでると同時に、一九五六年ごろから組織化が始まり、次第に本格化してきたパレスチナの抵抗運動を粉砕し、ゲリラの温床になっているシリア、エジプトなどの民族主義革命政権に大きな打撃を与える必要に迫られていた。シリア政府の場合、シリアのパイプラインを通るイラク石油会社の石油の通過料の大巾な値上げを要求し、最終的に獲得する程の力になっていた。

 こう見てくると、当時イスラエルが金切声を上げてチラン海峡の閉鎖による”平和的”イスラエルの”生命線”が脅かされたためと宣伝していたり、そのパトロン、アメリカの平和外交も戦争準備をカモフラージュするための巧妙な煙幕にすぎないことが判ってくる。

 中東戦争勃発直後の週刊朝日は、イスラエルが、いかに日本軍国主義やナチの電撃作戦の経験に学ぼうとしたかを示す記事を載せている。

 「ダヤン国防相は二度も来日しているし――二回目はベトナムでのアメリカ軍によるゲリラ撃滅作戦を学ぶためまたラビン陸軍参謀長(現駐米大使)やツー元参謀長も来日、日本各地の軍事施設を見学したり、自衛隊の降下訓練なども視察した。ヤコブ空軍少佐はその中でも真珠湾攻撃の詳細を防衛庁に尋ね、対米開戦時の判断や真珠湾攻撃の成功の可能性がどの程度あったかの資料を蒐めて帰った」という。

 ヤセル・アラファトPLO議長は「奇妙に見えるのは、平和的解決への呼びかけは、敵シオニストたちが、われわれの革命によって打撃を痛感し初めたとき始めて云々されたことだった」と述べている。

 今、ニクソンのドル危機対策により、イスラエルは二〇%の平価の切下げや、軍事費の膨脹、重税、外貨の澗渇、ゲリラ運動の影響による移民の足踏み、東洋系ユダヤ人の反政府運動、ガザを始めとする占領地域におけるアラブ人の抵抗運動の持続など、中東戦争開始以前の状況を再現しつつある。

(C)誤まれるイスラエルヘのイメージ

〈解説〉アメリカ帝国主義に操られる「中東の憲兵」

 イスラエルが国連の決議を悉く無視したり、ファントム機など尨大な軍事援助をアメリカからせしめているのは、イスラエルがアメリカを操っているのか、アメリカがイスラエルを巧みに利用しているのかという重要で興味深い論点がクウェイトの国際パレスチナ・シンポジュウムでも討議された。結論はアメリカにおけるシオニストたちの実力を過大評価するあまり、その背後の主人公アメリカ帝国主義の役割を見落すことは危険だという警告であった。

 もしイスラエルがアメリカ国内のユダヤ人の投票をふりかざし、アメリカの政策を意のままに動かしていると信じこんでいるとするとすれば、それは孫悟空の自惚にすぎない。孫悟空は「世界の果まで飛んでみせる」と豪語したが、畢境、それは観世音の掌の中にすぎなかった。

 その一つの実例は、アイゼンハワーが、スエズ戦争の折に示した警告によってイスラエルがシナイ半島からの撤退を余儀なくされたことである。もっともこのアメリカの対英仏強硬外交の裏にはスエズ戦争を機会に中東から英仏の勢力を追い払おうという意図がこめられていたが。

 アメリカを先頭とする世界帝国主義がこの地域を握り続けようとするのは、(一)中東における尨大な石油利権の擁護、(二)アラブ民族解放運動の前進の阻止、(三)ソビエトにたいする戦略的地位などである。

 アメリカの場合、海外投資の中で最も重要なものは、海外投資の三〇%を占める石油投資であるといわれその利潤率も最も高い。

 一体、アメリカやイギリスは中東の石油利権からどれだけ儲けているだろうか?

 国連経済委員会の報告でも中東における石油会社の平均利潤は、売価の八○%、クウェイト石油会社の場合のように投資額の五〇〇パーセントにまで達しているものもある。一バーレルあたり、メキシコでは三ドル、クウェイトでは一ドル五九セントでしかない。ヨーローパの場合、運賃はさらに安い。

 一九六六年の世界の石油投資額一八億ドルのうち、一一億ドルは中東地域に投資されている。

 中東の石油は、世界の石油の全埋蔵量の七〇%を占め、その半分はアメリカ、三分の一はイギリスが支配している。

 アメリカはサウジ・アラビアの殆んど、イラクの三分の一、クウェイトの殆んど、バハレーンのすべて、東アラブの石油の六〇%を握っている。

 だからアメリカや世界帝国主義は、アラブ諸国にこのような尨大な石油利権がある限り、イスラエルヘの援助を採算のとれる投資として続けるということがわかるだろう。

 いつの日か、アラブ諸国の民族主義、革命勢力が強大となり、中東での石油利権が消滅するときに、アメリカはイスラエルヘの援助の負担に堪えられなくなり、この国家を保護する必要を感じなくなるに違いない。

 リビア、クウェイト、その他の産油国で、対イスラエル闘争に果す石油の役割が強調され始めていることは注目に価する。

 OPEC〔石油輸出国機構〕が、アラブの石油資源をできるだけ利用し尽そうとしている国際石油資本に抵抗して正当な民族的利益の擁護に成果を上げ始めていることはその表われである。

 それとともに見落してはならないのは、こうしたアメリカの権益を守る上で、何といってもシオニズムという神がかりの狂信主義に武装され、ほっておいてもアラブ民族の前進を押潰すために、生命を賭けて闘う二五〇万人のイスラエル人という存在は、アメリカ帝国主義にとって願ってもない安上りの軍隊といえよう。ここにドル危機にもかかわらず、アメリカのイスラエル援助の秘密が存在する。その代償として、アメリカがイスラエルにどれだけの特典、特権を与えているか。中東戦争当時カイロ駐在のアメリカ臨時大使であった外交官デビッド・ネス氏は次のように述べている。

 例えば、一九四八年から一九六八年の二〇年間に、アメリカ政府の経済援助は二〇億ドルに達し、民間からのドルの譲渡は二五〇億ドルで、その合計三六〇億ドルは二五〇万人のイスラエルの人口で割ると一人あたり、一四〇〇ドルとなる。一人あたりの援助額を基準にすれば、この額はアメリカの他の同盟国への援助額をはるかに上廻り、その近隣の一三カ国にたいする一人あたり三五ドルと格段の差がある。

 一九六七年以来、援助額は大きく増加した。

 アメリカの援助は経済援助ばかりではない。ダヤン国防相が訪米した際には、すぐにでもニクソン大統領と会見できるが、このような恩典は、北大西洋条約機構や東南アジア条約機構の国防大臣にも与えられている訳ではなく、彼らはレヤード国防長官、ロジャーズ国務長官、あるいは副大統領で満足せねばならないのが普通とされている。

 さらに、アメリカでは、イスラエルは殆んど全く批判を免かれていることや、イスラエルはアメリカの高官の人事に陰に陽に介入していること、アメリカの市民がイスラエルの軍隊に参加することを許可している等々の特殊な関係を上げることができる。

 一九七二年九月のパレスチナ・ゲリラの五輪村襲撃事件とそれにつづくイスラエルの大規模な報復攻撃によって二〇〇人を越すパレスチナ難民が殺されたあと開かれた国連安保理事会において、アメリカが拒否権を発動してイスラエルの行動を支持したことは記憶に新しい。

〈解説〉任務を分担し合うシオニスト諸政党

 イスラエルは社会主義国家としてみられ、長い間ヨーロッパの進歩分子との交流が行なわれてきた。サルトルをはじめフランスの左翼がイスラエルに好意的なのは、第二次大戦中にユダヤ人と抵抗運動をともにしたという経験をふまえてのことであった。また日本の青年の間では、集団農場「キブツ」が一種のユートピアのように憧れをもって眺められてきている。しかし、イスラエルの現実は、対外的に宣伝されているものより遥かに醜悪である。

 今、その主要な政党をみてみよう。

 まずマパイ党。イスラエルの政治の中心に座りつづけてきたこの党は、一九三〇年に結成された。一九六八年には、アフダト・ハボーダがラフィとともにイスラエル労働党を結成し、同年二月にはマパイ党との連合を決議している。その基本的思想はシオニズムで、親西欧的、激烈な反ソで、フランス領アルジェリアやアフリカでアメリカ帝国主義を助け、スエズ戦争をつくり出して、積極的に参加した。

 マパイ党はイスラエル建国以来、常に政権の座にあったため、あらゆる恩典を所有している。ヒスタドルートやユダヤ機関を握っており、したがって政府も支配している。マパイ党に反対投票すれば、その代り、サラリー、家、健康保険を失う恐れがある。

 マパム党は、イスラエル左翼の代表をもって任じている政党で、一九四八年にマパイから分裂した左派とハショメル・ハツァイルが合併して結成された。その基盤をキブツに置き、社会主義を標榜し、ソピエト、キューバ、ベトナム人民への支援を口にし、デモを組織することもある。しかし、ことパレスチナ間題となると”民族主義的”立場に変り、シオニストぶりを発揮する。

 マパム党の伝統的役割は、世界の左翼にシオニズムを”売り込む”ことであったが、先輩格の排外主義的諸政党に従っている間に、海外の左翼からの信頼を急速に失ってきている。マパム党に、とって第一義的重要性をもつのは、シオニズムに基づく民族闘争であり、まず民族闘争が続けられている間は、革命闘争は「民族的一体性」を破壊することであるから始めるべきではないとしている。

 ヘルート党は、かつてのテロ集団のイルグン・ツバイ・レウミが一九四八年に結成したもので、最右翼であり、予防戦争も辞さぬとし、パレスチナとトランスヨルダン全域のユダヤ国家を標榜している。一九六五年には自由党とガハル党を結成した。

 イスラエルが”金看板”にしているキブツにはいくつかの欠陥があることも忘れてはならない。

 一、キブツは、まず、それぞれ一政党に属しており、共産党に投票するメンバーは、ハショメル・ハツァイルから追放され、マパム党に投票すれば、マパイ党のキブツから追出される。そこには政治的寛容性は見あたらない。

 二、「コンミューンから共産主義へ」がスローガンで、イスラエル全部がキブツになれば平和的に共産主義に移行するとしているが、現実はむしろ先細りで四、五%でしかすぎぬ。

 キブツは、また政府、銀行、会社から借金をし援助資金をえている。

 それにキブツが創られた初期の頃の多少とも情熱的な開拓精神をもっていたものも少くなり、イスラエルで生れた青年、いわゆるサブラたちはもっと個人的利潤を求める現実主義者になっている。

 キブツが必要とする資金や運営資金は、二〇%が銀行から、二五%がユダヤ機関から、一九・六%は政府から、二二%はキブツ連合やヒスタドルートから支給、援助され、したがってシオニズムを批判できない仕組になっている。

 ヒスタドルート〔イスラエル労働総同盟〕は、シオニスト左翼がつくったもので、その重要性や権力、富などにおいては、キブツ全部を合わせたものより優る(第3章参照)。

 現在では、巨大な産業、銀行、船舶、航空合杜、建設会社、保険制度を所有しているし、ユダヤ人の九〇%はヒスタドルートの労働組合に加盟している。ヒスタドルートは労働組合の活動よりも、所有者や雇用者としての活動が大きく、労働者の階級的利益よりもユダヤ国家の利益を優先させている。

 歴史的にもヒスタドルートは、イスラエル国家の創設以前からその民族的政策によって、ユダヤ人労働組合を創り出し、国家の中の国家として巨大な組織に成長してきた。ヒスタドルートを制すればイスラエルを制するともいわれ、マパイ党は、約三〇年以上もイスラエル(一九四八年以前はパレスチナのユダヤ人社会)を支配してきた。

 ベン・グリオンは、ヒスタドルートの創設者の一人であり、書記長を務めたため、歴代の首相の中でも実力者であったし、エシュコル、ラボン、ナミールなどもヒスタドルートの幹部であった。

 ヒスタドルートは、労働組合というよりもイスラエル経済や社会の背景となっている雇用主としての性格が強く、”非公認”のストが発生したときには、スト参加者は、スト基金の不足と、雇用主がヒスタドルートである場合には、永久に職を失う危険にさらされる。

〈解説〉「民主主義的イスラエル」

 第6章でもみたとおり、憲法すらないイスラエルは対外的イメージとして「中東における唯一の民主主義国家」を売込んでおり、国内では白々しくも「人種差別反対週間」などすら開催しているが、それはかつて、「ゲルマン民族の血を引く者だけが市民となりうる。したがってユダヤ人は国家の一員たりえない」と言明したヒトラーの政策を裏返しにしたものにすぎない。

 現在、イスラエルには、一種のカ一スト制度にも似た人種的格付けが行なわれている。

 一番特権を享受しているのは、西欧系ユダヤ人。その下に東洋系ユダヤ人、また”居て欲しくない民族”としてアラブ人の三階級である。

 まず、アラブ人について言えば、ヨーロッパにおけるドイツの「ユダヤ人問題」の「最終的解決」とシオニズムによるパレスチナの「アラブ人問題」の「最終的解決」とは同じ考え方に立っているのである。つまり無用な民族はできるだけ絶滅、追放することを目標にしている。

 しかし、イスラエルにおけるアラブ人出生率は一〇〇〇人にたいし五〇.四%、ユダヤ人は一〇〇〇人にたいしニハ・二%にすぎず、今後、三五年後に、占領地のアラブ人を加えれば、アラブ人の人口がユダヤ人を凌駕するといわれている。このためイスラエルではアラブ人の出生率を抑制すべしとの意見も生れている。

 東洋系ユダヤ人の場合も同様に西欧系ユダヤ人より出生率が高く、さらに西欧からの移民が減少し、東洋系の移民の方が増えてきていることと相まって今では東洋系ユダヤ人は西欧系ユダヤ人より多くなっている。(一九六七年二月二九日付「マーレブ紙」)

 しかし、この西欧系ユダヤ人と東洋系ユダヤ人の間には厳しい差別が存在し、官庁、軍隊、教育、産業、商業、財界の重要な地位は殆んど西欧系ユダヤ人が独占している。東洋系ユダヤ人は一二〇人の国会議員のうち一七人、閣僚は二人にすぎない。

 こうした東洋系ユダヤ人にたいする差別の一例をあげれば、東洋系ユダヤ人は二〇年間も、狭い一部屋に六人もつめこまれているにもかかわらず、一方西欧系ユダヤ人の移民を迎えるため今エルサレムには四、五人の家族向の安い家賃で、四DKのアパート群がエルサレム郊外にどんどん建てられているといった有様である。

 こうした差別にたいする怒りは、一九七一年五月にはエルサレムその他の都市で爆発し、「ブラック・パンサー」と呼ばれる青年たちが三〇〇〇人もデモを行ない、警官隊と衝突、火焔瓶を投げ、多くの逮捕者を出しており、その活動はますます拡がり始めている。

 もちろん、こうした運動は、アメリカの「ブラック・パンサー」の運動との連帯運動にも発展し始め、アメリカの新左翼のユダヤ人平和活動家の中にシオニズム反対運動を拡げている。このため、最近では、イスラエルは、東洋系ユダヤ人の移民を、テルアビブの空港から追い返す例まで出てきている。

 イスラエルの宗教についても不可解の点が多い。

 イスラエルでは、政治指導者の大部分をはじめ、その七〇%のユダヤ人はユダヤ教の信者ではない。ダヤンが「嘆きの壁」で随喜の涙を流してみせるのもユダヤ教という宗教を政治的手段として利用しているにすぎない。シオニストたちは、ユダヤ教の神への信仰をイスラエル国家への忠誠にすりかえ、いわばユダヤ教の信仰を政治的な”イスラエル教”に切換えてしまっているのである。

 だからイスラエルに残っているユダヤ教は狂信的宗教グループに後押しされた戒律を重んじる正統派ユダヤ教であり、イスラエルでの宗教活動の上での支配権を握っている。このため他の教派のユダヤ教徒へは、とくに改革派のユダヤ教徒には圧迫、迫害といえるような明白な差別が存在している。こうした差別はまた、キリスト教のある教派、とくにイスラエルにごく少数しかいないプロテスタントにも行なわれている。

 日常生活に占める宗教的戒律の厳しさが全く時代錯誤的であることは、例えば安息日にあたる土曜日に医師が自動車で出かけたり、救急車が曲りくねった裏町に入ってしまうなら、頭の上から石が降ってくることからもわかる。

(D)アラブ・イスラエル紛争にかんする誤解

〈解説〉大国のエゴイズムに挑戦する第三世界の闘い

 この章も是非、ベンダサン氏に読んでほしいところである。同氏は反ユダヤ・親シオニズムの著書『日本人とユダヤ人』の中でこういっている。

 「パレスチナをめぐる争いは、大地主、農奴、軍閥、利権、買弁体制とキブツ、モシャブ、協同組合体制との争いである。」(一六ニ〜三頁)と述べ、エルサレムのイスラム教大司教ハジ・アミン・フサイニがナチに協力したことを引合いに出したり、イスラエルに残るアラブ人が十分な政治的権利を享受しているかのごとくに自信満々と、ヒトラーばりの誇大宣伝をしている。

 いちいち反論するまでもなく、本文に明瞭であるが、ここで紹介しておきたいのは、イスラエルの偽善的な自画自讃は別として、アラブ・イスラエル紛争を世界がどう見ているか、一体誰が、イスラエルの味方で、誰がアラブの味方なのかということである。

 ここでイスラエルは「進歩」と「民主主義」をお題目のように並べたてているが、その民主主義の実質については、すでに本章(C)でみたとおり、口で「民主主義」、「進歩」を唱えていても”基本的人権”、”正義”については触れたがらない「近代国家」にすぎない。このことは世界で最も旧約聖書の研究が盛んな国と威張っていても、ナパーム弾を平気で落すのと軌を一にしている。その「近代国家」ぶりもさきにドィッチャーが指摘しているように、ファントム機の製造や核兵器の開発はできても、アメリカの資本家の圧力で、製鋼所一つつくらせて貰えない従属国家にすぎないのである。

 この闘いの真の姿は、イスラエルとその背後にある帝国主義対第三世界に属するパレスチナ人民を先頭とするアラブ諸国民の闘いであるといえよう。

 PLO議長のヤセル・アラファト氏も、繰返し「パレスチナ革命は、人類の解放と自由、社会正義、尊厳、民族的自決、統一をめざし、帝国主義、人種主義に反対する一切の闘い――つまり世界解放運動の一環である」と強調している。

 こうした認識から、パレスチナ解放運動は、アルジェリア、ベトナム、キューバ、中国などの闘いの経験を吸収しようとしており、これら諸国での経験がアラビア語に訳され、学習されているのである。

 一方、イスラエルは明らかに、民族解放をめざして闘っているアジア、アフリカの新興諸国と公然あるいは隠然たる紛争状態に入っている。

 イスラエルが建国されるや、まっ先にこの国を訪問した外国の首相が南アフリカ連邦のマラン博士であったことが象徴するように、イスラエルは中東で発展を遂げるアラブ革新勢力にたいする世界帝国主義勢力の「憲兵」の役割を果しており、実際それはまた先にもみたように”忠君愛国”の思想にも負けぬシオニズムという狂信的思想で武装された安上りの軍隊をもっているのである。

 イスラエルの「英雄」ダヤンは、中東戦争の前にベトナム戦争を視察にきて、ベトナム解放民族戦線のゲリラ活動の掃討作戦を学び、ベトナムで威力を発揮している重装備のファントム機五〇機を渡してほしいとアメリカに申込んだといわれている。

8.なぜアラブはイスラエルを拒否するか

〈解説〉ユダヤ人とシオニストの差

 長い間、アラブ・イスラエル紛争は、民族的、宗教的対立であり、アラブのスローガンは「ユダヤ人を海に叩き落せ」であるという俗説が支配的であった。

 しかし、キリスト教ヨーロッパ世界での虐殺やスペインの異端裁判やツァー・ロシアの迫害から逃れてきたユダヤ人に避難と保護の場所を今日まで与えてきたのは常にアラブ人であった。

 中世のアラブの統治下に、アラブ諸国のユダヤ人の共同社会は繁栄し、言語や文化の面でもアラブ化するものは多く、信仰や学問に専心し、アラブ文化の発展につくした、科学、医学、哲学等で最高の業積を残したユダヤ人もいる。

 スエズ戦争の際にイーデンの政策に反対して閣僚を辞した当時の外相アーサー・ナッテング卿は、パレスチナでは幾世紀の間、同じ週に生れた子供は誰でも、ユダヤ人であれ、アラブ人であれ、自動的にお互に義兄弟、義姉妹になった慣習があり、ハジ・アミン・フサイ二大司教自身が三人のユダヤ人の義兄弟をもっていたと述べ、アラブ世界の寛容の中に平和に暮していたユダヤ人を紹介している。

 故ナセル大統領も一九六二年六月、ロンドンの「サンデー・タイムズ」との記者会見の中で「私が中学生の頃下宿していたカイロの伯父のアパートには、八組あるいは九組のユダヤ人家族が住んでいた。私はユダヤ人たちと友達になり、今でも私は時々彼らと会っている。ユダヤ人とのこのような交際が私の反ユダヤ感情を鼓舞したのではなかったかという人がいる。しかし、これほど真相とほど遠いものはない。私自身、個人的に一度も反ユダヤであったことはないし、分別あるエジプト人には極めて難かしいことだ。われわれとユダヤ人とは多くの基本的結びつきをもっている。結局、モーゼ自身エジプト人であった。イスラエルに反対する私の感情や行動は、国家としてのイスラエル人の行動によってつくり出されたものに外ならない」と述べている。

 もともと、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒とは、「アフル・エル・キターブ」(聖典の民)と呼ばれ兄弟的立場にあったのであるが、ナセルの言葉のように、ユダヤ人とアラブ人との抗争が始まったのは、バルフォア宣言が発せられた一九一七年からのせいぜい五〇年ほどの間のできごとにすぎない。

 コーランでは、「聖典の民」を尊敬するよう全ての信者に求めており、宗教的差別や偏見を非難しているし、現実にアラブ諸国では、ユダヤ人にたいする特別の差別的法律は存在していないのである。

 現に筆者がベイルートのパレスチナ・ゲリラの遺児たちの「子供の家」を訪間した折案内してくれたコマンドウも、いくつかの素晴しい別荘を指しながら、シオニズムに関係さえしなげればユダヤ人は、レバノンで活発に商業活動ができるのだと話してくれた。

 パレスチナ難民の中には、一九三〇年代に、ナチス・ドイツの迫害を逃れてパレスチナに新しい生活を求めて避難してきたユダヤ人難民を助けるために当時のユダヤ・アラブ協会に奉仕したものもあるといわれている。とすれば、イスラエル人は今、アラブ人にたいし、恩を仇で返していることにならないだろうか?

 一九〇八年の最初のシオニスト集団のメンバーの一人であるナハトン・チョフシイは、この忘恩のユダヤ人の態度を悲痛な言葉で責めている。「……われわれは土着のアラブ人を悲劇的難民に変えてしまい、今なお彼らアラブ人を非難中傷し、その名前に泥を塗ることさえあえてしている。われわれは、われわれが行なったことを恥かしく思い、これらの不幸な難民を助けるどころか、自分の恐るべき行為を正当化し、賛美しようとさえしている。」

〈解説〉軍国主義国家「イスラエル」

 イスラエルの政治に色濃くつきまとうのは軍国主義である。ベンダサン氏が『日本人とユダヤ人』の中で、さかんに日本の平和主義者を攻撃し、日本の再軍備促進を叱咤激励するのもナチス・ドイツの政策を継承しているからである。彼はシオニストとして、かつてのナチスの盟友、日本への軍国主義への郷愁を何とか現実に変えたいとの焦燥感を正直に(?)に告白しているにすぎない。

 アーサ・ケストラーは、「マルキストであろうとなかろうとユダヤ人は誰でも、選ばれた人種の一員であり、アラブ人は彼らよりも劣っているとみなしている」と述べている。ベンダサン氏の言う「内なるゲットー、外なるゲットー」も本来、普遍的宗教であるべき筈のユダヤ教をねじ曲げた「選民主義」にもとづくアラブ蔑視に通じる危険を内包している。

 イスラエルと戦前の日本の類似点を研究することは、日本軍国主義への反省として多くの貴重な教訓を与えてくれる。

 「選民主義」、「人種差別主義」は、かつての「アジアの盟主」、「八紘一宇」からさらに「世界に冠たるドイツ」、「アーリア民族の優秀性」に通じる「劣等民族」を「従属民族」にしようとする「支配民族」の思想である。それは過去のことでなく「経済大国」意識の醸成に躍起になるのも、日本人をもう一度「優秀民族」にまつり上げようという危険な思想工作である。

 イスラエルがこのような「選民主義」政策を強行することは、必然的に国民の思想善導、教化指導を伴うものであり、イスラエル国内に住むユダヤ人はもとより、アラブ人の思想の中にまでアラブ蔑視の思想を形づくってゆこうとすることである。

 現に、イスラエル建国当時、一〇〇万余のアラブ人が暴力で国を追われたことなどサブラと呼ばれるイスラエル生れの青年たちに知らされていないし、現実にアラブ人に加えられている様ざまな迫害の根拠となっている法律の存在すら判らなくされているのである。

 こうした意味ではイスラエルは世界の中で最も真実を恐れる国家といわざるをえない。ひたすら「国防国家」として「生命線」確保のための「富国強兵」に邁進し、盲目的に国民をアラブ民族と戦わせているのであり、かつてのナチスの悲劇的な犠牲者であったユダヤ人にたまたまこのような犠牲を強制しているシオニズム指導者の政治的責任は大きい。

 それは、質問124の中で、アバド・ハアアムが述べているように、かつての奴隷が急に主人公になったとき、それまで加えられてきた迫害を復讐心に燃えて他人に加えるということである。

 しかし、それは、かつての被害者が加害者に変ることであり、トインビー教授が批判しているように、ナチスから受けた迫害の中からユダヤ人が何も学ばなかったなら、それはナチスに優る悲劇であろう。ひるがえって、われわれ日本人の中にもかつて原爆の被害を受けた体験を忘れて、またもや日本の核武装を唱える若手政治家が登場したり、南京大虐殺をはじめ、罪ないアジアの民衆を苦しめ続けてきたことが長い間真剣に反省されなかったばかりか、アジアの民衆の血が流された朝鮮戦争やベトナム戦争を日本経済再興のブームとして迎えた感覚こそ、シオニズムに通じる集団エゴイズム以外の何ものでもないことを猛省すべきでなかろうか?

 こうしたアラブヘの侮蔑感と人道主義的・精神的シオニズム運動の指導者であったアバド・ハアアムとの間には大きな隔たりを感じない訳にはゆかない。

 ハアアムは、運動はすべてのパレスチナ人の個人の権利や人間的尊厳を重し、「パレスチナにおける民族的郷土」をパレスチナの全住民の間の創造的協力の機会とみなした。そのため、イギリスの委任統治の初期に、パレスチナ・アラブ人をシオニストが迫害したことを論評して、「これが、われわれユダヤ人が幾世紀の間夢みてきたシオンヘの帰還なのか?われわれは今、その土を罪ない人の血で汚すためにシオンにやってきたというのだろうか?」と嘆いたという。

〈解説〉イスラエルとなぜ交渉しないか?

 アラブ諸国とイスラエルはなせ交渉しないのだろうか?という素朴な疑問を抱く人びとは多いに違いない。

 中東戦争直後、ハルツームで開かれたアラブ首脳会議で打出された最終的態度は「イスラエルを承認せず、交渉せず、和平しない」の三無主義であったが、これにたいして一般の人には、アラブは自らの立場に自信がないから交渉を恐れているのではないかと考えている人もあるようだ。

 しかし、アラブ諸国にとっては正直に言って交渉する相手国、イスラエル自身が実は国境すら満足に確定していない正当な国家の範疇をはみでた特異な国家ということである。

 それに、イスラエルは、一方で交渉を呼びかけておきながら、図々しくも既成事実をどんどんつくり出してゆくという傍若無人ぶりを発揮している。

 イスラエルはユダヤ教、キリスト教、イスラム教の聖都エルサレムを国連決議を無視して勝手に改造し、新しい移民のための高層アパート群を建てているし、その他シリア、ヨルダン、エジプトの領土でも屯田的キブツを設立している。またイスラエルは国連決議の難民の復帰への呼びかけを拒否しておきながら大規模なユダヤ人移民の”狩り込み”に躍起になっている。これで、イスラエルに本当に”交渉する”誠意があると言えるだろうか?

 イスラエルはこれまで一五〇を越す国連決議を拒否してきたが、この直接交渉の要求も国連を無視し、煙たい存在として邪魔もの扱いし、交渉の舞台から消そうとしているのである。

 故ナセル大統領は「アラブの領土が占領されているという条件下の直接交渉は、結\局無条件降伏になる」と言明したが、パレスチナ人の法律家、ヘンリー・カッタンは、「イスラエルが国連決議を無視してアラブの領土を占領しつづけ、その占領地からの撤退を同国の承認との交換条件としていることは、明らかに脅迫行為であって、アラブ諸国とイスラエル間に協定や承認が実現したとしても、それは無効である」と述べており、さらにスエズ運河開通についてさえ、これをイスラエルが取引の条件とすることはすでに国際法違反と指摘している。

 また最も重要な問題点は、このイスラエルとアラブ諸国が直接交渉をすることは、この国土の真の主人公のパレスチナ・アラブ人を除外してしまい、パレスチナ人民を犠牲にした形での解決を求めることになることである。イスラエルがアラブは”現実的”でないという場合、彼らは三〇〇万人のパレスチナ人の存在という”現実”と、この現存する人民の奪われた権利を否定しさろうというのである。

 サミ・ハダウィは「これは、裁判官の前に現われた銀行強盗が、もし彼らにたいする告訴が取下げられさえすれば、銀行に口座を開きたいのだと主張しているという話に譬えられることである。裁判官は答えたいに違いない。『お前が銀行から盗んだ金を返したあとなら、お前には口座を設けるようなお金は残らないだろう。』」と述べている。

〈解説〉イスラエルにたいするアラブ・ボイコット

 アラブがイスラエルをボイコットしているのは、国連加盟国にたいし余りに厳しすぎる制裁でないか、戦闘的ではないか、そして道義に反するのではないかと感じている人もあるようだ。

 しかし、よく考えてみると、一九〇八−〇九年以来、歴史的ボイコットをしているのはイスラエルであった。「ユダヤ人の労働を」のスローガンでアラブ人をボイコットし追放し続けてきたのは、イスラエルであった。さらにアラブ人の雇用禁止ばかりでなくアラブ農産物の購入禁止すら行なってきた。

 一九四九年五月にアラブ連盟が満場一致でボイコット事務所をダマスカスに開設することを決めたのは、当然の自衛手段であるが、これは独立国家が行なうという意味で重要である。

 ボイコットは、アラブの怒りの表明であり、自衛の手段に外ならない。

 イスラエルは、これまで明らかにされたように、今後やってくる移民を吸収し定着させるために生産的な雇用をつくり出す必要につねに迫られている。またイスラエルは、各種の工業的基盤を築くのに必要な原料をもたないため、殆んどの原料を輸入せねばならないが、頼みの綱の援助や寄付金が止れば、輸入もできず、したがって加工品を輸出できないという脆弱な経済体制にある。このことからもボイコットはアラブにとって有力な武器なのである。

 アラブ諸国とイスラエルは現在休戦状態にあるが、このことは戦争状態はまだ終結されていないということであり、イスラエルが数々の国連決議を無視し去って、アラブの領土をイスラエル化したり、レバノン領土内への攻撃を加えていることは、本来なら、軍事的報復に価するのであるが、ボイコットという最も弱い方法、手段を行使しているにすぎない。

9.パレスチナの抵抗運動

〈解説〉武力抵抗の法的根拠と目標

 日本ばかりでなく全世界的に、武力抵抗を行なっているパレスチナ人は、ゲリラあるいは「テロリスト」と称せられている。

 しかし、彼らはゲリラと呼ばれるのを好まない。彼らパレスチナ人は、奪われた祖国を奪い返そうとして闘っている自分たちフェダイーンは、第二次世界大戦中にナチスに祖国を占領され、その解放のために闘ったフランスの抵抗運動の参加者と同じ自由の戦士だと確信しているからである。

 占領された祖国を取返す民族解放運動は、国連憲章でも保障された自衛権の延長であり、一九〇七年のハーグ協定と一九四九年に締結されたジュネーブ協定は、戦闘中の諸国における戦時規定を判定し、組織的抵抗運動の法的存在をはっきりと認め、占領が完全であると部分的であるとを問わず、交戦者が享受しているすべての合法的権利をこの運動参加者に与えている。

 こうしたパレスチナ人民の武力闘争が大衆的規模で展開されるようになったきっかけは、一九六七年の中東戦争におけるアラブ諸国軍隊の敗北であった。それまでパレスチナ人は、難民キャンプの中で、世界の世論は必ず目醒め、国際正義は達成されるものと二十数年待ちわびていたのであった。彼らパレスチナ人は、アラブの敗北により、外部の力に頼るのは、誤りであり、自力で武器をもって闘うことに踏み出したのである。

 ではパレスチナの武力闘争の目標は何なのか?

 一般にまだ根強く残っているのは「アラブ人はユダヤ人を海に投げ込もうとしている」というシオニストの逆宣伝である。難民とされているパレスチナ人も可哀想だが、しかしユダヤ人が皆殺しになるのも許してはおけないというのが多くの人びとの偽らぬ気持ちであろう。正直にいってこうしたユダヤ人への憎しみの発言をしたパレスチナ人指導者が記録の上で一度あったことは事実である。しかし、イスラエルの宣伝とは全く逆に故ナセル大統領は一度も「ユダヤ人を海へ」といった発言をしていないのである。

 パレスチナ抵抗諸組織が示している目標は、「非宗派的・世俗的・民主主義パレスチナ国家」である。

 しかし、この三宗教徒の共存は新しいものではなく、一九三七年のピール委員会も、一九四八年に国連調停官ベルナドッテ伯もこのような国家の創設を提案している。

 この民主主義パレスチナ国家の中では、三つの宗教集団の共存ではなく、各個人の宗教の自由が保証される。アラファット議長は、解放されたパレスチナの大統領は、ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒のいずれでもありうると述べている。

 また、パレスチナが敵視するのはユダヤ人の政治思想であって、個々のユダヤ人ではないことを明確化している。アル・ファタは「誤ったシオニズム理論の犠牲となっているユダヤ人をも救う」ことを目指している。

 アル・ファタの指導者の一人、アブ・イヤドは「アル・ファタとの対話」の中で「もしユダヤ人が人種主義者の手で迫害されることがあれば、どこであれ、ユダヤ人を助ける。そのためにユダヤ人には武器を与える用意もある。」と語っている。

 事実これまでに、アル・ファタの学生は、ドイツでユダヤ人のエリ・ローベル教授を迫害と暗殺未遂から救ったり、マッペン(イスラエル社会主義者集団)のメンバーであるユダヤ人を保護したりした。

 こうした呼びかけは、ユダヤ教徒のアラブ人にも受入れられ、パレスチナ解放運動へのユダヤ系アラブ人の参加がみられているし、現在、アメリカのユダヤ人青年がパレスチナ低抗組織に招かれて、交流を深めていることも注目に価する。

〈解説〉多様な抵抗諸団体

 この武力抵抗運動は、パレスチナ人民の存在を世界に知らせる上で大きな力となってきた。確かにPFLPの連続ハイジャック事件は、過激な手段として指弾されるべきであるが、トインビー教授のいうようにパレスチナ人の正当な権利が奪い去られ、過去二〇数年間難民キャンプで悲惨な生活を強いられてきたことにたいして国際社会が殆んど救済の努力を行なってない以上、彼らをハイジャックに追い込んだ世界の一人一人が何らかの責任を負っているといえなくもないのである。見方によれば、彼らパレスチナ人は、国際連合という「錦の御旗」の下に、祖国全体を異民族にハイジャックされてしまったといえるのである。

 この点その国土に住む住民の意思が全く無視されたまま戦後二〇数年間異民族の支配に委ねられ、その祖国復帰もまだまだ住民の願望の届かぬところで決められた沖縄一〇〇万の人民の運命もパレスチナ人とよく似ている。ついでに言えば筆者はパレスチナ抵抗組織や難民キャンプを訪れた際、彼らが沖縄の問題を自分たちと共通の問題としてとらえていることに深い感銘を覚えたものである。

 今、パレスチナの抵抗組織を簡単に紹介しよう。

 パレスチナ解放機構(PLO)は、一九六四年一月の第一回アラブ首脳会議で樹立され、アラブ連盟でも公認済みのパレスチナの代表機関である。一九六九年二月、カイロで開かれたパレスチナ国民評議会でヤセル・アラファット氏が議長に選ばれ、アハマヅド・シェケイリー氏の後任者となった。内政不干渉の原則を維持しながら、アラブ各国政府から財政援助を受けている。

 このPLO参加のゲリラ諸団体には、民族主義路線をとる最大の組織「アル・ファタ」やマルクス・レーニン主義を基本路線とするPFLP(パレスチナ解放人民戦線)、PLA(パレスチナ解放軍)、アル・サイカ、PDFLP(パレスチナ解放民主人民戦線)など大小約三〇の組織があったが、このうちPFLPは、一九七〇年九月のカイロ空港とアンマン郊外での連続ハイジャック事件、一九七二年五月のテルアビブ空港襲撃事件(PFLPは”テイル・ヤシン作戦”と呼んだ)は、その独自の過激路線からPLOと離れて行動をとっていた。しかし、ヨルダンのフセイン国王によるゲリラ掃討作戦やイスラエルとの平和協定の締結によってパレスチナ解放運動を圧殺しようとする国際的な動きが高まるなどの厳しい状況の中で、一九七二年のカイロのパレスチナ国民会議においてパレスチナ・ゲリラの全ての団体の大同団結が決まり、PFLPを含む一切のゲリラ諸団体は同年五月頃より、一つの政治方針、(1) 反帝国主義(2) 反シオニズム(3) 祖国解放闘争(4) これらの闘いを通しての階級闘争を基本線として、軍事行動、情報活動などの一本化が進み、WAFA(パレスチナ通信)の創設、統一機関誌「パレスチナ革命」の発行などその成果が実りつつある。

〈解説〉国連安保理事会決議と西岸地区パレスチナ国家

 パレスチナ人民が、一九六七年の国連安保理事会の決議の実施に反対するのは、この決議の実行はパレスチナの抵抗運動を解体させることにたるからである。

 一九七一年二月にクウェイトで開かれた国際パレスチナ・シンポジュウムでクウェイトの皇太子シェイク・ジャーベル・サバーハ殿下の開会の挨拶の中の、 「パレスチナ人民の正義の要求に応じえず、彼らの法的権利を保証しないいかなる解決も成功したり、持続する機会をもたないであろう」という言葉にもみられるように、パレスチナ人民の承認しない協定は真の解決ではない。もしアラブ国家が勝手に パレスチナ人の運命まで決めてしまうというのであれば、それは「第二のバルフォア宣言」になりかねない。

 またこの安保理事会の決議は一九六七年の不正を正そうとはするが四八年の不正には目をつぶっている。

 さらに、一九六七年決議について確かにパレスチナ人について言及されているが、それは「難民の公正な解決」ということであり、たとえパレスチナ人が帰国できたとしても彼らは居住権は有するが、政治的権利はもてないということである。

 またヨルダン川西岸地区に建設するという「パレスチナ国家」の構想も、ナビール・シャース博士が指摘しているごとく、イスラエルとヨルダンのフセイン政権のめがねにかなったカイライ政権、つまりかっての満州のようなものをつくり出すことであり、イスラエルのための安い労働人口の供給源――たとえば朝、トラックに積め込まれてイスラエルに送られ、一日労働したあとトラックで送り返されるという労働者を提供する国家――の樹立をねらっているのである。

〈解説〉国家的組織めざす難民

 イスラエルは、「ゲリラはテロリスト」というイメージづくりと並行して、パレスチナ人を自らの意思で国を捨てた”難民”として描きだすのに全力投球してきた。パレスチナ人はつねにエシュコルやメイアによって「パレスチナなぞ存在しない」とその存在を否定され続けてきたが、万一実在者として紹介される場合でもつねに国連難民救済機関から僅か一日三〇円足らずの食糧その他の配給を受けて動物のような惨めな生活をする、民族的意思すら持たぬアラブ諸国の人質的な”将棋の歩”としての存在としてしかマスメディアに現われてこなかった。

 しかし、第5章でも明らかなように彼らパレスチナ人は自分たちの意思で故国から出たのではなく全く暴力的に故国から追い出されたのである。すなわちパレスチナ人は、自己の政治見解から祖国を嫌って国外に出た難民ではないのである。

 しかし、こうした一〇〇万人に上るパレスチナ人の追放は、「誰でも自分の国を含め、いかなる国をも退去し、彼らの国に帰る権利をもつ」と明記した世界人権宣言の第一三条を侵犯しているのである。

 パレスチナ戦争当時の国連調停官ベルナドッテ伯爵も、一九四八年九月一七日、イスラエルのテロ団員によって暗殺される前日、国連にたいし「もしも追い出されたかつての家にアラブの難民が帰るという権利への承認が与えられないなら、いかなる解決も正義であり完全であるとはいいえない」と報告している。

 パレスチナ難民は、故国に帰還したいという燃えるような希望を決してすてていない。私は、クウェイトでの国際パレスチナ・シンポジュウムの外国代表団の世話役をしていた建築家のパレスチナ人が「われわれは、クウェイトの建設に大きな貢献をすることができた。しかし、われわれはここにいつまでも住みたい訳ではない。故国パレスチナのことを一日たりとも忘れた日はない」と切々と語った言葉を今でも思い出す。

 パレスチナ難民たちは、様ざまな困難な環境の中で自らの主体的な組織をつくり、国家としての役割に近づこうと努力しているのである。

 たとえば、レバノン、ヨルダンなどの難民キャンプは、二〇年間にわたる屈辱的経験の中からパレスチナ人としての自覚に強く目配め、自らの組織を築いてきている。診療所、学校教育、様ざまな社会サービスはパレスチナの抵抗組織を通じて準備されてきている。現在、難民キャンプにおける犯罪発生は、革命以前の量の一〇%と大きく低下している。自己規制が警察にとって代っている。私自身も難民キャンプで会った数多くの貧しい子供たちが、他のアラブの国の首都でみかけるチップねだりを決してしないのに、感銘を受けたものである。

 また、この闘いの中で、これまでアラブの封建制の中で絶えず従属的立場にあった女性が解放され、男女ともにコマンドウ、看護婦、教師として参加している。このパレスチナの婦人の解放は三〇年代の民族解放運動から芽ばえたといわれ、それはエジプトの婦人解放運動が、第一次大戦直後の一九一九年、サード・ザグルールの指導した反英独立運動の中から生れたのと軌を一にしている。

 ここで注目されるべきことは、パレスチナ人がこれまでアラブ諸国の中でたえず先駆的な活動を続けてきたことである。

 パレスチナ人の教育制度は三〇年代には他のアラブ世界よりも進歩していたし、パレスチナ戦争以後にもすでに大学卒業生は五万人以上を教えている。

 こうしたパレスチナ人の教育水準の高さが、アラビア半島やアラビア湾海岸の首長国などの近代化国家建設に貢献していることはもちろん、民族主義・革新的思想の面でも影響を与えている。このことはその近代化の早かったレバノンにおいても見受けられ、ここ二〇年余りの間にレバノンで英語の力が強くなったのもパレスチナ人の影響によるものだといわれている。事実、ベイルートでのPLO研究センターやパレスチナ研究所の研究、出版活動は高い水準を誇っている。

〈解説〉アラブ民族運動の前衛としてのパレスチナ抵抗運動

 パレスチナの運命は、アラブの運命と深くかかわり合いあい、イスラエルの侵略はパレスチナばかりでなく、アラブ民族全体の存在そのものへの脅威となっている。このことからパレスチナ人民の抵抗は他のアラブ諸国の防波堤としての一面をもっているのである。

 だからこそ、一九四七年の国連の分割案採択と、その後のパレスチナ人の暴力的追放、イスラエルの独立宣言によるパレスチナの不法占拠、イギリスの委任統治終了の時、それにつづいて隣接アラブ諸国がパレスチナヘの軍事的援助を行なったのであるが、しかし、これらのアラブ諸国の支配者や国王による軍隊の派遣の背後には、それぞれ領土的野心がこめられており、それがアラブの大きな敗因の一つであったのである。アラブの理論家、サーティ・アル・フスリの「アラブが七カ国もいたのに、パレスチナの闘いに敗北したというべきではなく、七ヵ国であったから敗北したというべきだ」という言葉のようにアラブの連合軍側の利害の衝突が甚だしすぎたのであった。

 しかし、一九四五年に創立されたアラブ連盟は、その結成のいきさつがイギリスの肝いりで行なわれたという不自然さはあったにせよ、第二次大戦後のアラブ民族主義運動の発展にともなってその加盟国も増大し、その諸活動の中でもとくにパレスチナ問題に力を入れ、これまでに七〇〇余の決議を出しほとんど毎月三つほどの決議を新たに行なっているほどである。

 一九六四年に制定されたアラブ連合の国民憲章もイスラエルの危険性を「破壊的な帝国主義的癌の膨脹」と指摘しているように、パレスチナの闘いへの連帯は、アラブの革新諸国では当然のことであるが、これはまた保守的といわれるアラブ諸国にも共通している。例えば一九七一年六月ファイサル国王が来日された折の佐藤首相との共同コミュニケにもファイサル国王がパレスチナ間題とシオニストの膨脹政策、パレスチナ難民の受難などについて説明され、正義と公正を基礎としたパレスチナ間題の解決を強調されていることも注目に価する。

 また事実、パレスチナ人の解放運動の側でも、パレスチナ革命の意義を、(一)パレスチナはアラブの故国の一部である、(二)パレスチナ人はアラブ人民の一部である、(三)パレスチナ低抗運動は国際的解放運動の一部である、というとらえ方をしているばかりでなく、パレスチナ解放運動こそアラブの革命の前衛としての役割を果しているとの自覚にもとづいているのである。

 パレスチナ解放運動にたいするアラブ諸国政府側が警戒する一つの問題として、パレスチナ民主主義国家が特定の宗教を国教と定めぬ世俗的・非宗派的国家であるという一面も忘れられてはならない。

 今、パレスチナ解放運動は、パレスチナの武力低抗運動の激化と国際世論の変化に驚愕したイスラエルとアメリカ帝国主義が行なった中東紛争の”ヨルダン化”によって、ヨルダンの反動政権の集中的弾圧による手痛い打撃を受けた。しかし、彼らの運動は決して中断されているのではなく、その陣営の再建の努力が続けられ、イスラエル国内、とくにガザにおける英雄的な闘いは今も繰返されているのである。

 パレスチナ低抗組織は、その解放運動の勝利のためには、何よりも全パレスチナ人の革命への参加、さらにアラブ諸国の民衆の動員、イスラエル国内にいるユダヤ人の意識の変革を目標に粘り強い地道な闘いを進めようとしている。

 イスラエル国内についていえば、マッペンと称するイスラエル社会主義者集団の登場や西欧ユダヤ人との平等の権利を求めるイスラエルの「黒豹党」のメン一バーの増大とその活動の激化など新たた抬頭が見られるのである。これらの運動が「民主主義的パレスチナ国家」の構想と結びつくときに大きな力に変って行くだろう。


阿部政雄
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