山城むつみ氏の「ドストエフスキー[2]」(「文学界」2004年7月号掲載)

 不定期連載ということだったので、ある程度心積もりはしていたのだったが、5ヶ月も待たされるとは予想していなかった。しかし、期待以上の素晴らしい出来栄えである。
 前回の[1]を読んで書いた感想文の末尾に自分はこう書いた。
《しかし、今回詳細に分析されたのは、同意の閾をめぐる考察一点のみである。それがいかに信仰の定式(キルケゴール)を満たしていようとも、重要なポイントが曖昧なまま残っている。何度か言及されているにもかかわらず、何故「他者とは、究極的にはキリストに他ならない」のか。「信仰はアリョーシャのような卑近な他者との対極において問われる」のにもかかわらず、何故、「イワンにとって、キリストはアリョーシャとの関係において問題になる」のか、まだ納得できるようには書かれていないのである。
 論の半ばにおいてこのように述べられていた。「キリストとは、人をして他者との対話へ、同意へ、自分の顔(人格)と声をそこにおいて他者に曝け出すべき閾へと促し、そこにおいてその人を支える言葉なのか。そのような声であり顔のことなのか。」
 これだけならば、アリョーシャもまたキリストだ、ということになろう。しかし、すでに補助線は引かれている。〈バフチン/ドストエフスキーによれば、それは単に心の問題ではない。ロゴスの問題である。アリョーシャがイワンの内的対話の中に入り込んで発した「あなたじゃない」という言葉に同意できるかどうか、自分の外部に立つ他者の口から語られた自分自身の言葉に順うことができるかどうかという言葉の問題である。〉
第二回目以降が大いに期待される。山城氏は自信に満ちている。これは〈助走にすぎない。〉》
 自分の翩翩たる問いは、今回充分に解明され尽くしていた。第I節の終わり頃にこのような但し書きが挿入されているにもかかわらず。
〈ここで断っておこう。私はこの評論をできる限り集約的にリジッドに書こうと何度も最初から書き直しているうちに、ディグレッションなしにドストエフスキーについて書く見通しを失った。『悪霊』と『未成年』と『作家の日記』が共有している、いわゆる黄金時代の夢から論を起こすつもりで、前置きとして悪魔について書き始めただけなのだが、筆はどうしようもなくそこから逸脱してここまで来、当惑している。〉

 その逸脱の過程で、こうある。
〈私は今、こう書きながら、ラズノグラーシエというロシア語(文字通りには「声が多様に複数あること」、異和、矛盾、不協和)を思い出している。前回、私が論じたことは、ひと口に言えば、ドストエフスキーを読む鍵はラズノグラーシエだということにつきる。〉 この〈バフチンがドストエフスキーの対話を分析して抽出したカテゴリー〉は、対話において最も重要なカテゴリーであるソグラーシエ(同意、一致、調和)に対して、最も〈「貧しく非生産的」〉なニェソグラーシエ(不同意、不一致、不調和)と同様に不一致なのではあるが、〈「より本質的」〉だと考えられる。〈バフチンによれば、それは根本においてソグラーシエに「ひかれて」いる。つまり、最も重要と彼が言うソグラーシエに声を合わせようとして合わせ損ねること、その結果として調子外れの不協和、不諧調を来たしてしまうことにほかならない。そこから生じる不一致、その分裂と闘争、異和と矛盾、葛藤と反逆は、ニェソグラーシェから生じるそれらと似て全く非なるものなのだ。〉
 この概念の射程は予想以上で、これまでの殆どすべての優れたドストエフスキー論がソグラーシェとニェソグラーシェという二項対立の構図におけるバリエーションでしかないことが浮き彫りになる。のみならず、〈ドストエフスキーの「地下室」は、ラズノグラーシェの位相に置かれている〉ことが明らかになる。〈地下(ラズノグラーシェ)は地上(ニェソグラーシェ)よりも天上(ソグラーシェ)に肉迫した場所に設定されているからこそ強烈な不協和音を発するのだ。〉この指摘は、実に見事に『地下室の手記』の特質をえぐっていると思われる。このような分析は今までなかったのだ。

 さて、ここまでは前回の見事な集約と発展と言えるのだが、瞠目すべきはこのテーマがこのように興味深く展開された後に示された次の転調である。
〈だが、注意しよう。ラズノグラーシェの位相が見落とされるには理由があるのだ。ゾシマが言うように、不死があるかないかというような問題を誰もが悩めるわけではない。〉
〈流刑地でドストエフスキーが注目していたカントによれば、人間は、神=自由=不死をめぐる問題を強いられている。一方において、理性はこの問いを斥けることができない。問いはいわばニュートリノのように宇宙から不断に人間に降り注いでいるのだ。ただ、我々はこの幽霊(ファントム)粒子に刺しつらぬかれているという感覚を持たない。それを知らないというよりも、知りたがらないと言った方がいいのかもしれない。とはいえ、問いへの被爆を感知する鋭敏な計器を備えた人々もいる。いや厳密には問いが降り注ぐのではない。何が降り注いでいるのか、光か、風か、聖霊か、私は知らない。だが、それが検知されるときには、必ず問いとして、ただ問いとしてのみ検出されるというのが正確なところなのだろう。〉
 重点は移った。ここまでは主体の反応がずっと問題にされてきていたのに、この転調によって、何に、反応しているのかが問われ始めたのだ。客体へと問いが転回されたのだ。

 山城氏は、ロシア語のドゥーフという単語が聖書において対応するのはルーアハ(ヘブライ語)、プネウマ(ギリシア語)であると説き、風とか空気に関係のある言葉だと補足している。さらに〈パウロ書簡ではプネウマがプシュケー(魂、心、心理)に対置されるが、ロシア語聖書では前者がドゥーフ、後者がドゥーシャという語に訳し分けられている。〉と、このように前置きしたあと、核心部に踏み込む。引用してみよう。
〈ドゥーフ/プネウマは聖書的な意味では、心、魂、心理ではなく、それらを超えたところから外的に働く力なのだ。宇宙から不断に降り注ぎ、鋭敏な計器にには、神=自由=不死をめぐる問いとして検知されるあの幽霊(ファントム)粒子である。共同約聖書が神(しん)と訳しているように、神の働きだと考えてもいいのだろう。聖霊はもちろん悪霊もまた神の使いなのである。〉
 鋭敏な批評家たちがドストエフスキーのリアリズムに見出した「他我への洞察(他者の心に浸透しそれを見抜くこと)」とは〈このドゥーフ/プネウマからの洞察に他ならない。〉 〈だが、ドゥーフ/プネウマを単に霊的な力と解せば、イワーノフやベルジャーエフがそうであったように、神秘主義的・神話的思考へ流れてしまう。前回見たように、バフチンはこれを徹底して言語の諸問題としてとらえ、ドストエフスキーの作品において心に染み透る言葉(プロニクノヴェンノエ・スローヴォー ― 他者のドゥーシャー/プシュケーをその外部から刺しつらぬく言葉)として摘出し、この言葉が小説の構成にとって持つ決定的な位置を解明したのである。〉
 驚くべき事に、山城氏は、ドストエフスキーの作品中にある、登場人物の「心に染み透る言葉」を神の働きと位相的に等値しているのだ。
 しかし、このことはドストエフスキーの「神格化」とは違うのである。神のごときドストエフスキーが、神的な言葉を書いたのではない。言葉には、どんな言葉にでも神の働きが宿るのである。ドストエフスキーはそのことを徹底して認識していた。
 言葉に秘められた真実は、それを発する者らの〈モノローグが彼ら自身に対して示しているいわば内側の意味αとしてしか存在しない。それは、言葉にすれば他人にとっても意味を持つが、他者にとってのその意味βは、主人公にとっては真実でない別のもの(ニェソグラーシェ)となっている。どこか馬鹿げた滑稽なものになってしまうのだ。〉
〈一般に言葉は、意味内容と形式が同一であっても価値においてはαとβとに分裂し乖離している。この閾は生きた言葉の常態だ。だが神秘はこういう日常普通の中にこそ隠れている。たとえば、ドゥ―シャ/プシュケー(魂、心、心理)と異なるドゥーフ/プネウマ(霊、神しん)の位相とは、いわゆる霊界とか霊体と言った超常的なものではなく、言語行為が日常、不断にこの分裂的な疎隔によって言葉において作り出す空隙(αとβとの落差)のことなのだろう(太初に言有り、言は神と共にあり、言は即神なり)。ドゥーフ/プネウマは、どこか霊界にあるのではない。言語に生じるこの疎隔、差異の隙間(ラズノグラーシェ)がそれなのだ。ドストエフスキーはファントムのように言葉のその隙間に侵入する。言葉(スローヴォ)が「心に染み透る」(プロニクノヴェンノエ)とは、言葉における空隙に浸透することだ。〉
 しかし、これで謎が解き明かされたわけではない。より微妙な問いが続くのである。
〈だが、作者が浸透させるのではない。おそらくは作家をもつらぬく何かがそこに射し入るのだ。何が、か。〉

 山城氏は前回のエッセイの最後で、今回は『悪霊』―『作家の日記』―『未成年』の〈連続体〉を扱う事を約束していた。またモチーフとして次のように書かれていた。〈心に染み透る言葉は、ドストエフスキーの長編小説(たとえば『悪霊』や『未成年』)と時評文(たとえば『作家の日記』)とのあいだの閾の上に置かれている。それは、バフチンの言うとおり「独特な位置」を占めており、そこで震え、揺れている。ドストエフスキーを読む最大の難しさは、この閾の上に立ち続けることの難しさにほかならない。〉
 しかし、何故これらが〈連続体〉であるかは書かれていなかった。今回約言は果たされ、同時に〈連続体〉である所以も見事に説かれている。
 第II節は「屈折する斜光」と題されているのだが、それは『悪霊』の主人公スタヴローギンが見る夢から採られている。そして、この同じ夢は、『未成年』のヴェルシーロフも『作家の日記』中の「おかしな男」もドストエフスキーに見させられているのだ。この夢の不思議さは、これら三様の人物たちが、夢から覚めてなお、理由は定かでないが感激に泣きぬれているのみならず、夢の中で見た、「呼び招く夕陽」に強烈に刺し貫かれている点である。 彼らは何を見たのか。

 この〈連続体〉を貫くのは勿論この夢ばかりではない。第III節は「ロシア的方向と普遍的ファントム」と題されているが、『悪霊』―『作家の日記』―『未成年』の三作は、ともに1870年代の激動するロシアの現実の渦中にあって〈名状し難い愁訴にとらえられた作家が〉〈あたかもルーレットに賭けるように〉言葉を投じて止まなかった成果なのである。1861年の農奴解放令以降、輩出した政治的ニヒリストやナロードニキの群れが横行する現実に身を横たえ、〈ただ推察した、ゼロに賭けたのだ。そして誤った、賭けに負けたのだろう。日記のであれ小説のであれ、それがこの「作家」の言葉のありようなのである。〉

 [T]の読後書いた感想文で、山城氏の方法が、小林秀雄の方法を可能な限り忠実になぞるものであると指摘したのだったが、今回氏は、ドストエフスキーの悪魔の饒舌を、そらで書いて見せた。小林秀雄が白痴論において、あの退屈で冗長なイッポリットの告白を空で書いて見せたように。最初に引用した断り書きにあったが、論を〈集約的にリジッドに書こうと〉して果たせず〈ディグレッションなしに書く見通しを失った〉事と同様、この二つは小林秀雄の方法の真髄なのである。
 さて、その山城氏の悪魔はこう言うのである。
〈で、世界は変えることができる、わたしはそういうポジティブな人間をずっと支援して来ました。闘えば、世界は変わるのです。ただ、人間に関係ある一切は我に無関係ならず、でしたっけ、わたしも座右の銘にしてましてね、人間に関係のあるすべてのものはわたしにも無関係じゃない。したがって、善をなさんと欲して悪を来たすという人性も変わらない。変わらないその人性が世界を変えると世界がどんな風に変わったか、これは世界史において、いや二〇世紀だけでも無数の例をご覧になったとおりですし、現在も進行中です。こんな言い方をすると、あなたはまた激怒しそうですね。理論もデタラメで倫理も欠いたあんな連中と一緒にするな、と。待ってください。私は反対なんかしていない、賛成だと申し上げているでしょう。(中略)私が訊いているのは単にこういうことです。歴史において、信じられないような愚劣、悲惨、混沌、荒廃、腐臭が噴出したのは、理論に誤謬があったから、倫理に不正があったからですか、と。もしそうなら、理論と倫理を正せば、それらは結果しないということになる。でも、そうじゃない。高遠な理念に発した無欠の理論を真摯に倫理的に実践しても、同じ、いやもっと悲惨で愚劣な事態が結果するでしょう。〉
そして悪魔はこうつけ加える。
〈前もって忠告しておきますが、そのときには、こなんな馬鹿げたことは望んでいなかった、別のことを欲していたが、何かの不手際、何かの間違いでそういう予期せぬ現実が結果しただけだなんておっしゃらないように。ちがいますよ。その馬鹿げた結果こそが、あなたの理念なり理論なり倫理なりが望んでいたことなのです。認めたくないと思うそのことにこそ無意識というやつが強く働いている。つまり結果したその醜態こそ、あなたの無意識の欲望が欲していた当のものなのです。それが人間的自然というものなのです。〉

 この第2回目によって表明された山城氏の見解はおよそ徹底したものである。おそらくは、自らの創作になる悪魔の独白に先立って記された次の言に集約できるであろう。
〈ドストエフスキーが社会改造の理論をどれだけ理解していたか、揚げ足ならいくらでも取れるだろう、おおいに侮ったらいい。しかし、この作家の知らなかったマルクス主義やナチズムはもちろん、右翼のであれ左翼のであれ、穏健であれ急進的であれ、どんな改良家も右の指摘だけは侮れないはずだ。賭けてもいい、ドストエフスキーの言葉の肉のみを 斬って社会改良に着手した者は必ず骨を断たれる。〉
 ドストエフスキーの指摘とは、次のようなものであった。
〈これらの現代の最高の教師たちのすべてに、古い社会を破壊し新たに建設し直す万全の機会を与えてみるがいい。そうすれば、暗愚、混沌、これ以上はないというほど粗野で盲目的で人間不在のものが出て来て、その建物は、完成する前に、人類の呪詛のもと瓦解するにちがいない〉
 氏の見解に異議を差し挟む考えはない。 
 ただ私が補足したいのは以下のようなこと1点のみである。
 山城氏が瞠目しているドストエフスキーの人間性への洞察は、彼が流刑地で注目していたカントに対する徹底した批判でもあるのだが、そのカントの認識にもまた恐ろしく冷酷なところがあるのだ。決してカントはヒューマニストなどではない。人類がついには世界共和国を形成するだろうとの見通しを述べてはいるのだけれども、それは直接、理想に引かれてのことではないのである。
 山城氏が注目するドストエフスキーの悪魔、到達不可能な理想に引かれるがゆえにこそ、理想に激しく異和を唱え、醜悪と惨事をもたらさずにはいない悪魔とよく似てはいるけれども、カントが言うには、ついには世界共和国の形成に至るのは、社会において生じざるをえない人間同士の敵対性によるのだ。
 ところで、これは歴史的な認識なのである。山城氏が言うように、ドストエフスキーの洞察した人間性の悪、彼が悪魔として見事に定着した人間の本性に見いだされる敵対性は認めざるを得ないのであるが、その悪が引き起こした大惨事の後では、同じ敵対性が反転して、今度は自らに向かうということが起るのである。そしてこのこともまた歴史的事実として認めざるを得ないのである。

 さて悪魔をそらで書くほどドストエフスキーの作品の言葉に密着してきた山城氏は次回に向けてこう書く。
〈ドストエフスキーに喜劇と見えているものが我々に悲劇としか見えないのは、彼が見ようとしていた或る一点を我々が見ようとしていないからで、それが見えれば一切が変わると作家が信じていたとしたら〉
〈ドストエフスキーは人性を皮肉な冷眼で凝視していたのではない。その一点に、加熱した言葉を賭けていたのだ。〉

 この第2回目は次のように結ばれている。この謙虚なスタンスは上に挙げた「一点」への肉迫という課題において、次回以降の大きな成果を予想させるに充分である。
〈スタヴローギンやヴェルシーロフはしびれたようにその光源を渇望していたが、そのやみがたい渇きこそが彼らに激しいラズノグラーシェ(異和)を起こしていた。光源には、呼び招く夕陽という甘美なイメージをも破壊する不気味な光が満ちていたにちがいない。それはおそらく、作者自身をもつらぬいている。ドストエフスキーを読むことは、この作家とともに、言葉においてこの光を見ようとすること、いや、その光源に見入られようとすること、その斜陽に射しつらぬかれようとすることなのだろう。私はそれを見たと言っているのではない。光という比喩をも破砕する圧倒的な声がそこには溢れている、ただ、そういう感触があるだけだ。二十年前にそう予感しながら眼を背けて以来、今なおその光を聴いてはいない。それを認めるところから再開しよう。〉


飛弾五郎
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