山城むつみ氏の「ドストエフスキー[3]」(「文学界」2005年12月号)

1年5ヶ月振りに山城氏のドストエフスキー論の続きが出た。ずっと期待して待ち続けてきただけに嬉しかった。そして充分その期待に応えてくれる論考だった。

長年、小林秀雄の「『罪と罰』について」と「『白痴』について」は愛読してきたが自分の読書力では解けない謎がいくつもあった。それらの謎は魅力的で、年月が経つとともに色あせるどころかますますその魅力を増してくる種類のものであった。思い立ってはドストエフスキーの諸長編を読み返した。

ラスコールニコフには一体何が起こったのか? ソーニャとは何者なのか? 二人の間で何が起こったのか? 絶望の果てに、二人が子供らしい微笑を浮かべるとはどういったことなのか? こう書いてきてあきれるのだが、ほとんどすべてが自分には謎なのだ。しかし三十年にもわたってこれほど愛読してきた小説家も評論家も他にいないのだ。

また、ムイシュキンとロゴージンが共犯だとは一体どういうことなのか? この謎は「『白痴』について」の末尾で唐突に記された気がしたが、数学者・岡潔との対談においてややくわしくその解説がなされていたので、自分は岡潔の諸エッセーをもむさぼり読むようになったのだが、それくらいこの謎は魅力的だった。
今回、これらの謎は、これまでの[1]と[2]の考察に加えるに、新たにJ.デリダとキルケゴールの著作より、恐ろしい愛のパラドックス、すなわち愛とは「死をあたえる」ことだという命題を抽出し、その助けを借りていっきょに、見事に解明されていると感じた。

ところで、これは直接ドストエフスキーの小説からというより小林の上述の論からくる謎なのだが、小林は自らの数十年にわたる読解の限界点を記すとともに、「罪と罰」のエピローグに描かれている、シベリアの流刑地で苦しい黙想に沈むラスコールニコフの精彩を欠く描写の背後から、突然読者である小林のうちに出現するある視線について述べた。
〈時が歩みを止め、ラスコオリニコフとその犯罪の時は未だ過ぎ去ってはゐないのを、僕は確かめる。そこに一つの眼が現れて、僕の心を差し覗く。突如として、僕は、ラスコオルニコフという人生のあれこれの立場を悉く紛失した人間が、さういふ一切の人間的な立場の不徹底、曖昧、不安を、とうの昔に見抜いて了つたあるもう一つの眼に見据ゑられてゐる光景を見る。言はば光源と映像とを同時に見る様な一種の感覚を経験するのである。〉

小林は、この視線の主をドストエフスキーと考えているが、今回、山城氏はこう推察しているようだ。むしろ視線の主は神であろう、と。そしてデリダを援用しながら次のように書く。神が出現したといえるためには、他者を通じて語られる、見えない言葉そのもの、が聞こえることが必要である。この見えない言葉そのもの、についてはこういう引用がデリダからなされている。〈神は私を見る、私の内なる秘密を見る、だが私は神を見ない、神が私を見るのを見ない、神のほうは、私が背を向ける精神分析医とは違って、正面から私を見るというのに。神が私を見るのを私は見ないのだから、私は神の声を聞くことができるだけであり、またそうしなければならない。だが多くの場合、誰かが神を、聞かれるべきものとして私に与えてくれなければならない。神が私に言うことを、私はある他者の声を通して語られるのを聞く。〉

山城氏の予感では「罪と罰」の結末において〈ラスコーリニコフを刺し貫く「見えない言葉そのもの」を聴くことが出来る〉はずなのだが、まだ自身そうはならないと言う。そしてこう自問する。〈何かが、まだ全く読めていないのではないか。私自身が、私の内にある《私は殺した》を思考し抜ていないのではないか。本編を、そして私自身を繰り返し最初から読み返さねばならない。〉

あわただしくここまで書きつけてきたが、読み返してみて、やや山城氏に不当な書き方をしていると気付いた。あまりにも、小林秀雄の恩恵を強調しすぎたかもしれない。

今度、この論で「推断」されたのは、全くオリジナルな見解なのだ。膨大な『作家の日記』中にいくつか、驚くべき短編が、たしか4つくらいだが、載っている。みな傑作なのだが、これまで自分は「おとなしい女」にあまりにも無防備だったと思い知らされた。旧約聖書中の、あのアブラハムの驚くべき出来事、当事者以外に一人の目撃者いなかったモリア山中におけるイサク殺害という「事件」において、おそるべき「愛のわざ」(キルケゴール)がなされた、それは〈死をあたえる〉ことであったのだが、「おとなしい女」であるソーニャは、全く同値の「事件を」引き起こしている、というのが肝心な点であって、山城氏は、ソーニャを遡行して、金貸しばあさんに虐げられていたソーニャの親友、リザベエタに、このおそるべき「おとなしい女」の原型を見るのだ。「おとなしい女」は世間の、いや近しい人たちの憤激をまねく。それはなぜだろうか? 『白痴』のムイシュキンもまた。
山城氏の今回の達成はこの「憤激」の解明に尽きるが、その射程は「おとなしい女」の「おとなしい眼」が、何故ラスコーリニコフの〈秘密を静かに刺し貫いてゆく〉のか確かめえたことだろう。


飛弾五郎
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