友人なのか外人なのか

 小学生は六年生の時だったろうか、先生がこんな授業をしたのを思い出す。「あなたの真の友人の名前を書いてみなさい」。道徳の時間だったとおもう。配られたわら半紙を前に、どうしたものかと戸惑ったあの時の感じをいまでも反芻することができる。その「感じ」を、当時の私が「残酷」という言葉で受け止めたかは記憶にないが、現在の私はあのクラスの情況を「残酷」なものと判断する。私が名前を書き込んだその友人が、自分の名を書いていてくれるだろうか、と疑心暗鬼にさせられるから、ということではない。好きな異性の名前を告白させられるような脅迫から、ということでもない。無理矢理な自白を迫られる無実な被疑者のような感じ、といおうか。「真」の友達はおろか、「友人」というものが何のか自信を持つことができない不安。少年野球を一緒にやっている者たちが友達ということなのだろうか?

 私が「外人」としてくくられる者たちと知り合うようになったのは、大学は出たけれど、といった当て所もない所作で、アルバイトを転々としていた頃のことだ。大手の運送会社の夜勤務でのことだった。そこでは、日系のペルー人を中心に、南米からの男たちがたくさん働いていた。その時知り合った何人かと、もう10年以上の付き合いが続いている。その中の一人、荷役の仕事を首になってからは新宿の繁華街でラテンクラブを経営しもした、私と同じ年頃の男との出会いは、私に「友人」ということを考えさせられる契機となった。それは付き合いから生じてきた観念ではなかった。出会ったその時に、突如として落ちてきた衝撃のようなものだった。いまの私なら、「才気」という言葉をそこに媒介させてみるかもしれない。あとでモンテーニュが『随想録』で、「友人」をめぐる似たような経験を語っているのを知った。そのペルーの「友人」を含め、バブル期の日本にやってきた私の知り合いの「外人」たちは、これまでにない苦境を実感しているようだ。日本にいさえすればなんとかなる、というような、それが甘い幻想であるとわかっていても捨て切れなかった恐れ混じりの執着心から、解放されてきたようにもみえる。日本にいてもしょうがない、その合理的現実を裏切って、ここにとどまるかどうかの不合理な選択を迫られているのだ。

 あの「真の友人」をめぐる授業で、私は一緒に集団登校する者たちの名前を書いたように思う。しかし鉛筆を片手に逡巡しているあいだ、ふと私の斜め後ろの、一番後部座席に座っていた女の子の名前を書き付けたい衝迫を覚えたのだった。彼女はいじめの対象からも除外された、背の小さな、ほとんど全く口をきかない女の子だった。彼女は誰の名前を書かねばならなかっただろうか? 「恥辱だけが生き延びるように思われた」と書き付けたのは『審判』のカフカだ。当て所なく行き着いたこの状況に私が無知であるとしても、無実ではありえない。しかしその何処とも知れぬ「外人」としての場所においてだけ、行くべき方向を見破る才気ある「友人」たちと出会えるような気がするのである。


菅原正樹
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