戦後を越える姿勢

 上野駅の近辺などを歩いていると、「自衛隊員にならないか」、と声をかけられることがある。スカウトされるわけだから誇らしいような錯覚をもたないわけではないが、まず唖然としてしまう。国家の防衛に携わる組織が、街をぶらぶらしている男で人員を補充しようとしている。そんなにも人手がたりないということなのだろうか?

 しかし私が大学を受験するにあたって世の親たちにささやかれていたことは、「防衛大学」を出れば就職には困らないからいい、ということだった。そこでは世の中で役に立つ様々な技術を授業として身につけさせられるので、<転職>に有利だというのである。もともとが自衛隊に奉公するために希望選択がなされているわけではないのだ。この「庶民的な」とでも形容できそうな親たちの知恵は、イラクへの自衛隊派遣が実施される現在に照応させて考えてみるとき、だいぶ両義的な機能を世の中にもたらしそうだということがわかる。

 小熊英二は、近著『<民主>と<愛国>』(新曜社)のその第一章を「モラルの焦土」と題して、当時の軍隊の官僚組織化の実態から、末端の庶民にまで生きられてしまったその形式主義的な有様を引用描写することからはじめている。情報を入手し分析する部署と、作戦を立てる部署とが分割されたままなので、実質的な戦略が練られることもなく付き合いから出世した司令官の体裁を保つめに作戦が実行され、末端の兵士は無駄死にしていく。そのことを前線の兵士も自覚している。いくら新聞で戦勝気分をあおっても、工場で働いている末端の人々は、自分が不良品の鉄砲玉を作っていることに自覚的なので、それが「嘘」であるとわかっているが、うわべだけは世に通して誤魔化してしまう形式主義で生きてしまう、という事例。指摘としては別に目新しいものではないが、おそらく現在もそうなってきているという実質においてまず一番に提示されることが選択されたのだろう。ならば、われわれはどんな「嘘」に気づいているというのか? 気づかねばならないのか?

 アメリカのマイアミにある中央司令部に派遣された自衛官の顔を、われわれはテレビを通じて見るようになった。おそらく防衛大出のエリートなのかもしれないが、インターナショナルの場で活躍しているイチローやナカタの顔を知っているわれわれからすると、この人は左遷されたのではないだろうかと思わざるを得ない。それともほんとにあれがトップクラスと渡り合えるとされた自衛隊の代表なのか? アメリカの軍人に脅されて「大変だ」という<情報(情緒)>が日本の司令部に伝わって、「あいつが可愛そうだ」という理由からイラク派遣への決断が後押しされたのではないかと、読売新聞の特集記事は疑わせてきもする。あるいは、イラクに派遣される若い自衛官の顔などもテレビでみることができる。とくに、陸自の派遣は北海道からである。そこは、若者の失業率が一番高い地域である。いや、イラクで銃撃された外交官二人は、率先して危険な地域への残留を決断した優秀な人ではなかったか? しかしどんな意味でなのだ? 途中で買い物によった店で発見され跡をつけられたのではないかと推測されているが、単純にそんな用心のない行動があの状況でなされたということは驚きである。徹底的にマークされるナカタが、そんな感覚でフィールドに立つだろうか?

 もはやわれわれが、外国人との関係でも、挨拶をしていればいいというような世界や歴史を生きているのではないということは自明なことだ。何人もの選手が大リーグやヨーロッパのサッカーリーグで闘うのが普通となっている現在にあって、政府官僚や自衛隊を指揮する連中の遅れは時代錯誤もはなはだしい。しかしこの錯誤を、もう一度生きさせられる瀬戸際におそらく私たちは立たされているのである。防衛大出のエリートは派遣の実際に直面でもすれば、ツテを頼りに<転職>していくだろう。聡明なことだ。それは、日本国憲法第3章第22条で保障された「職業選択の自由」である。馬鹿な上司のために無駄死にしていくのは、末端の者たちなのが実際なのだ。しかしそれでも、この「職業選択の自由」をしっかりとひとりひとりが握持しているならば、憲法9条など必要もないことが自明の論理なのである。そんな仕事につきたくない、それが「戦後」を越える一番のまっとうな姿勢なのである。


菅原正樹
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