ホームレスと

 植木職人などをしていると、行政側のいわゆるホームレス追放作戦に追随することがある。新宿駅の沿線の植栽地が寝床になったりするので、つぶされた植木を新しく植え直し、獣道にようにできた通路をふさいだりするのである。そんな仕事の場合は、役所の管理担当者などがたちあったりすることになる。小競り合いなどの問題がおきたりしないようにである。われわれ職人の側にもすぐに引き下がるようにとの指示がでていたりする。

 しかしそうはいいながらも、午前9時から仕事が始まる役人とは違って、職人のほうは現場に着くのが早い。ダンボールに囲われて眠っている人に声をかけていく。「おじさん! もうすぐ役人がくるよ。持つもの持ってどっかいったほうがいいよ。」持っていくものなどないと手振りで示したりしながらも、ダンボールは真新しいブルーシートで覆って余分に確保されていたり、荷運びの手押し車もチェーンで錠前がかけられたりしている。そしてなかには、ピシッとしたスーツにロレックスの時計でもしているのではないかというような井出たちで藪の中から出てくるのである。

 植え替えの作業は大変だ。まずは寝床に体積したゴミを掘り出すことから始めねばならない。ダンボールは、ゴミ収集車の労働者たちも心得ているので、所定の場所にだしても持っていきはしない。が、大概の使い古したダンボールは、雨水や小便や大便にまみれて幾層にも重なり、その厚さも50cm以上にはなっているのである。最初は軍手ひとつで掻き分けているが、とても人力では手に負えない。臭くて汚い。ユンボをもってきて掻き出すということになる。「よくこんなところで寝てられるなあ」と文句の声もでたりするが、一般的にいって、田舎から東京へでてきている作業員のほうが同情的である。やはり家賃を稼ぐのさえ大変だとわかっているので、いつ自分がアパートを追い出される身になるかということは、日常的な意識として纏いついてくるからだろう。そういう点では、地元が東京の者のほうが辛辣である。が、そう文句を垂れる職人自身が、ホームレスと間違われてもしょうがない井出たちなのである。昼食ともなれば、道路わきに座り込んで弁当を広げる。食べ終わればそのままごろっと昼寝にはいる。目の前を中国からの語学留学生たちが、流行のファッションで身を包み闊歩してゆく。そして作業中も小便をするところがなかったりするので、新しく植栽し直した植え込み地に最初の獣道を作っていくのは、植木屋さん自身であったりするのである。

 実際、ホームレスを植え込み地から追い出すための仕事とされていても、機能は逆になってしまう。ゴミもきれいに片付き、新鮮な植木が広がったそこはより寝心地のよい場所となる。たとえ植木に棘のあるヒイラギなどが選ばれていたりしても、芯のよりしっかりしたそんな樹種に敷かれたダンボールは、宙に浮く木の上の家となるのである。


 とうとう、北海道の部隊がイラクへとむかった。次は、東北の部隊が選ばれるのではないかといわれている。地元に安定して勤務する公務員という自衛隊員のステータスは、もろくも、というより、<自ら>崩れ去ろうとしている。しかしこの抵抗のなさを、また「国民は黙って処す」のかと批判してみせるのは、インテリの知ったかぶった傲慢な怠惰になるだろう。ベトナム反戦運動以上に反戦デモが広がったのではないかといわれる欧米諸国でも、なぜ戦争を防ぐ方向にそれが機能しなかったのか? それは、「個人」や「主体」がはっきりしているという彼らの運動が、実際には文化集団の慣例という自然としてしか機能していないことと同型の問題だろう。いかに彼らの個人的主張なるものがくだらない我執にすぎないかは、つきあってみればわかる。あれなら、黙って考えていたほうがましである。では、なにを、いかに考えるのか? 派遣される自衛隊員個人の顔に語りかけようとしない言葉など単に観念的である。しかしまた、その顔を<通して>より一般的に伝達されていく可能性を孕ませない言葉も空虚である。そして、そうした言葉を掻き出せなければ、<数>の実質性が、つまり大衆を動員することを前もって放棄した、エセ個人主義の口実にしかならないことは、前の大戦と同罪になるだろう。


菅原正樹
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