恥と責任

ドストエフスキーの『白痴』で、主人公の一人が、日本人の切腹に興味をみせる発言をする箇所がある。辱めを受けると、相手を攻撃するのではなく、その相手の目前で腹を切って死んで見せるという作法……私の印象では、おそらく作家本人が、この笑い話になってしまうような、他の文化圏からは考えられない倒錯的な特殊的な事態に、むしろ普遍的に突き詰められえる事例を洞察しているのである。

 イラクでの日本人人質事件をめぐって現象されたジャーナリズムの有様は、日本人が世界という共存の場所で、いまだ特殊的な思考様式を所持している民族であることを露呈させた。おそらく、まっさきに「自己責任」という言葉を出してきた人たちは、西欧から学んだ「民主主義」の模範解答を提出したつもりだったろう。ところが、本場のヨーロッパ、そしてアメリカの役人でさえ、勇気ある行動をした個人を非難する日本の世論に疑問を投げかけてくる。隣国の韓国では、「犯罪人」のように扱う日本の民衆の倒錯性を指摘する。「民主主義」の優等生気取りだった日本人には、思わずな落第点であったにちがいない。

 これは、日本を仕切るほとんどが東京大学出のエリートたちには、「恥ずかしい」ことである。匿名的な庶民ならばばれなくてもすむが、当人たちの答案用紙は周知のこととなってしまっている。しかしまた、日本の大衆自身が、わが政府と同じ思考様式の持ち主であり、わが政府が大衆から遊離しているわけではないことに、安心もできるだろう。民衆の政治の代理人である彼らが考ええることは、責任者である自分たちにではなく、民衆に切腹の肩代わりをさせることであろう。終戦直後に『堕落論』で坂口安吾が喝破していたように、「切腹」をする武士など実際には少数であり、武士道とは、現実にはそうではないことからくる憧憬として説かれるのである。そしてこの憧憬が現実のものとなるとき、それは自分ではしないが、他の者にやってもらって(無理強いして)、自分はそれをすばらしいものと吹聴して奨励することである。言い換えれば、恥を起点に居直り、その行為を他人になすりつけて自らの矜持は維持するという作法である。そしてそのこと自体、先生の真似をして行動していたのにと、「西洋はキリストを磔にしたように日本を十字架につけようとしている」と、啖呵を切って国際連盟を脱退していった、挫折した優等生である戦前の日本の政府の作法の反復であるだろう。

 そしてさらに、イラク人の捕虜虐待事件は追い討ちをかける。そこで露呈したのは、イラク人を「恥」かしめていた、民主主義の先生であるアメリカ自身が、それ以上に恥いらねばならない人種だということである。これでは、アメリカという先生にべったりだった日本の生徒といえど、離反してみせなくては面目がたつまい。つまり、そうした先生の失墜が、不出来な生徒に自立のチャンスをあたえてしまう。勉強途中の素直な生徒ならば、自らの間違いを訂正し、反省してよりいっそうの修練に励むべきであるのに、そうした努力が免除されてしまうのだ。政府は言うだろう、われわれはアメリカの言いなりではなかったのだ、「自己責任」を感得しえる独自な精神をもった日本人であるのだ、と。

 この特殊な精神は何処へ向かおうしているのか? しかし、そこにこそやっかいな問題が潜んでいるのだ、とドストエフスキーなら言うだろう。なぜ捕虜は「恥」をかかせられるような拷問をされたのか? あの猥雑さが、なぜ世界の世論を喚起させているのか? 戦争とはそういうものだ、人間とはそういうものだ、という安吾の洞察は両義的なのである。この「そういうものだ」という諦念への居直りが、事態を悪化させてきたのである。そして、「恥」をかいたアメリカが、「自己責任」として自ら腹を切るような倒錯的な犯行におよぶ事だって考えられるのだ。一番のテロリストはアメリカだというチョムスキーの批判にならっていえば、一番の自爆テロリストもアメリカになる可能性も潜在しているのである。


菅原正樹
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