引きこもりからフリーターということ

「フリーター」という用語にまつわる若者たちへの理解が、個人的な性向や心因性から社会(経済)的問題としての把握の仕方に変ってきているかもしれない。「ニート」というイギリスの階級社会の分析概念からの用語が代用されるようになってきているのも、その一つの現れだろう。そして単純に考えてみても、バブル期に20代だった若者の一つの嗜好的スタンスとして形容されてきたものが、それから10年以上が経ち、いい年をした悠長な半パラサイトシングルとしていつまでも安定的にはいられなくなるのは、当然な話であるだろう。しかし、個々人のスタンスとして無自覚・無意識にせよ選択(発症)されてきた事態が、社会(経済)的条件を改めて突きつけられることによって、そうたやすく変化するものだろうか? あの時の問題(発病)が、他の問題に入れ替わって、なくなってしまうというのだろうか? 地方の進学校に入ってすぐの16歳の頃から登校拒否を起こし、引きこもりのような浪人・在学中をふくめ、卒業後は26歳くらいまで週三日程度のアルバイトで過ごしながら悶々と生きてきた私個人としては、そうでもなかろうという、いまでも続いている思考から疑われてきてしまう。と同時に、27歳の頃の佐川急便の夜勤務や、28歳からこれまでの38歳までを東京の植木職人として日々社会勤務してきている者としては、「フリーター」という一様な階層把握の中にも、実は様々ななのか、いくつかなのか、としても多数の集団(階級)的行動様式が養育的に世襲されてきているのではないか、という観察もある。おおまかに「勝ち組」と「負け組」として大別されてきている現在の経済的カテゴリーではあっても、実は高度成長の過程で「中流」という形容理解の下で隠蔽されてきた、すでに受け継がれてきていた社会的階級の問題が、今になって反復再現されてきているのが一般的なのではないか、という思いである。

ここでは、後者の社会(経済)的な理解(観察)からの問題には言及しない。私が忘れないようにしたいのは、「引きこもり」から「フリーター」へという個人史的な流れのなかで、そこをなんと溺れないで泳いでいこうとした私個人の足掻きの軌跡であり、そこに垣間見てきているかもしれない、個人史を超えた領域への想念である。

「引きこもり」が苦しくなるのは、端的に言って、夜眠れなくなるからではないだろうか? それゆえその問いは、<不眠>をどう解決するか? そしていったい、なんで<不眠>はやってきたのか? という問いに変形的に集約されてくるのではないかと思う。昼寝て、夜起きるようになれば、自然引きこもりということになり、それが何年もつづけば、日々おこなうまともな仕事には就けなくなる、ということになるからである。悩む内容がなんであれ、まず夜眠ることができなければ、健常な生活というものには復帰できない……しかし、そう悩めば悩むほど、なおさら眠れなくなる。そこで私は眠らないことにし、16歳から27歳近くまで、ほぼ眠りたいときに眠るような生活をしていたのである。大学も夜学を選んだのも、そしてもうちょっと金を稼ごうとおもって夜勤を選んだのも、昼寝る生活が続くだろうと思ったからである。アルバイトとして肉体労働を選んできたのも、疲れれば眠れるだろうという考えがあったからである。そしてそんな考えでも、夜勤務として一年以上毎日一定の生活を持続できたことは、いわば普通の社会でもやっていけるという自信を私に与えたのだ。しかしだからといって、問題(不眠)が解決したことにはならなかった。いつでもどこでも、それが私に潜伏している恐怖を感じていたからである。だから、眠る、という工夫は、なんで<不眠>はやってきたのか、という問いの持続と不可分だった。

とりあえず、なんらかの遺伝的なものが受け継がれてきているだろうというのはある。兄もまた、そうだったからである(私より重く、いまは両親に守られて実家で英語塾を開いているが、なお相当量の睡眠薬を処方してもらっている)。そして一見ちゃんと友人づきあいも多い弟もそうなのではないか、という印象もある。男3人で、結婚しているのは、一昨年年上の女性と同居しはじめた私だけである。社交的な非社交性といったものが、一見社交的に見える父からのものであることも推測はできる。しかし、昔なら病として発症しなくてもすんでいたものが、なんで自分たちの時代にはそうなってくるのか、という問いとして残るだろう。私は小学校は低学年の頃からの野球少年で(父親は監督)、中学時代もチームのキャプテンだった。そういう意味では、社交的でないわけではなかった。が、高校に入ってすぐ、学校にはいかず、親・友人ともほぼ口をきかなくなった。それでも野球部には入っていて、上級生とまじってレギュラーポジションをとり、常にチームの中心選手だった。それゆえ、周りの者は「登校拒否児」と私のことをささやきながらも理解に困惑していたようだ。空手日本一にもなったこともある担任は、「ちゃらんぽら」と呼んでいた。私自身、どうしてそうなったのか、理由(動機)はわからない。あとからなら、外的には指摘できる。高校受験途中で胃を痛めていたのにもそのことに気づかず医者に行かず、体力的な持続力が低下していたこと。高校に入って、皆が私の知らないことをよく知っていることに気づいたこと。(たとえば、保健体育の授業でマスタベーションを知らない人は私一人だとわかった。)校内暴力で荒れていたあとの締め付け教育の中学から、旧制中学からの進学高に進み、その自由で民主的な雰囲気に戸惑ったこと、などである。そして<不眠>ということなら、子供の頃からあったろう。夜寝入るとき、枕に圧迫された耳の血液の流れがずっずっ脳髄に聞こえてくると(その頃はそうとは知らなかったけど)、それが何故か直立したワニがライフルを担いで軍隊行進のようにやってくる、そんなイメージに喚起されてきて怖くなったのである。しかしそれら原因理由がどんなものでも、なんでこの時発症として問題化したのか、内的には腑に落ちてくるものではない。そして私はそんな不透明感のなかで、本を読み始めたのである。プチブル(父親は地方大学の事務職員)であった家庭には、河出書房からの世界思想体系や、集英社からの世界文学全集や日本文学全集があった。パスカルの『パンセ』を読むことは、私に意識の卵のようなものを言葉に孵化する訓練を与えた。ほとんど大学受験勉強などせずに、高校受験のときのストックと、その身につけた読書力でであろう進学できたまえに、手探りで選んだ思想家は、キルケゴールとニーチェとドストエフスキーだった。

しかし、そうした内面(実存)的な方向への関心では、私の悩みを埋めることにはならなかったのかもしれない。一方で、高校の夏休みの課題図書であった丸山真男の『日本の思想』などを読んで、社会的な側からも、内省的追及がはじまっていたからである。それが、浪人中、岸田秀の日本を分裂病とみる解釈や、当時発刊されたばかりの柄谷行人の『探求I』などの受容の下地になったのである。それゆえか、文学部にはいった私は、流行としては一段落ついていた現代思想(ポストモダニズムと呼ばれる)的なものを後追いすることになった。自身の分裂病気質(兄はそう診断された)が、そこに現実分析への入り口を見出す思考を知らずのうちに呼び込んだ形だった。そうやって27歳頃のとき、なにか自己解析には踏ん切りがついた、という感覚がやってきた。私はふと、外を見ることが出来るようになった。週三日だけではなく、毎日働いてもっとお金を稼いでみようと思ったのは、その踏ん切りによってである。また大学(文学部)卒業後、都市部の地方銀行に就職してから外資系企業やなんやに転職していた4つ年上の兄が、とうとう病として倒れ入院したのもその頃である。社会に出て行った兄は発病し、引きこもった私はそれを逃れたのだ。

言語(意識)化してみること、それは確かに人を救うひとつの手段である。しかし、<不眠>は、頭に言葉が渦巻いて自動的に転回していく、自己統御不能な機械になってしまう現象ではないだろうか? そうした<不眠>への抵抗の知恵として、私はよく脳裏になんらかのイメージを浮かべてみる努力をした。そして考えてみれば、昔の人も、眠れないときは、頭に羊の姿を思い浮かべてひとつふたつと数えないさいと教えているではないか? この洞察は、なんなのだろうか?

《二○世紀フランス思想における視覚性の軽視に対するマーティン・ジェイの批判的考察と軸を一にして、スタフォードは、「言語狂い」のポスト構造主義や脱構築批評からの訣別と、詐術やまやかしといった悪しき性格を付与されてきたイメージ、外観、視覚化の価値復権を唱える。》(田中純「神経系イメージ学へ」・『現代思想』2005.7)

上引用が、おそらくいまの思想的葛藤である。たしかにあの子供の頃も、寝床に就いた私の脳裏にやってきたワニの行進のイメージは、眠れないことの確認であると同時に、寝入るための儀式のようなものでもあったかもしれない。しかし、眠れないとは、起きられない、ということと裏腹なのだ。いつまでも、眠っていることがきできる、夢をみながら。目が覚める頃合に慣れてくると、作家の埴谷雄高も言っているように、夢を操作できるようになる。私はそうやって、まるで映画『マトリックス』のヒーローたちのように、空を旋回していたのだ。しかし気持ちがいい夢ばかりではない。内容はともあれ、眠り(夢)が深くなっていくと、それは脱力と一体となってくる。寝覚めても、夢が天井に舞う。ざわざわとつぶやく声が、聞こえる。しかし立ち上がれない。ある時、ふっと目覚めたとき、私は怖かった。発狂しそうな恐怖が身体を叩きのめした。(二○世紀初頭のロシアの作家ナボコフが、そうした感覚経験に触れた『恐怖』という小説を書いている。)私はなぜか直観的に、腕立て伏せをはじめた。これ以上の体力の低下は、やばいと思ったのである。引きこもりのまま衰弱し、餓死していってしまう人は、この感覚を乗り越えて(通り越して)行ってしまったのではないだろうか?

言語とイメージをめぐる葛藤。<不眠>と眠りとの交錯。……引きこもりは、単に子供部屋に閉じこもるだけではない。机の下や、机と壁のほんの30cmほどの隙間に体をねじ込んでおこなわれたのだ。最初のイメージを洞窟に描いたラスコーのような原始人も、岩と岩との隙間にもぐって、絵が近すぎて自身でみることができないくらいの空間でだったそうだ。そして人類が言語を習得しはじめたとき、洞窟壁画はぱたっと描かれなくなったという。長い幼児期間を経て、大人としての進歩をはじめたということなのだろうか? 大人(世界)は嘘(言葉)をついている、その認識がある意味、引きこもりの誘発的な下地であると思う。青春時代にそれが来やすいのは、その世間の虚偽が、言語的に見えてくるようになるからではないだろうか? ヘーゲルはそれを、国家への成熟過程と平行して捉え、「不幸な意識」と呼んだ。しかし言語が、人間の宿命的な、存在論的条件であるとはかぎらない、とは、言語以前の人類の歴史のほうがずっと長いことからも予想してよいことのように思われる。引きこもりとは、「オタク」と呼ばれる者たちのように、イメージの世界に舞い戻ることであるならば、確かに「不幸な意識」は解消されてしまうのかもしれない。しかしいつまでもテレビゲームに熱中して衰弱死者が出てきてしまうように、それはまた別の症状として問題を再現させているだけなのではないだろうか? ならば、この錯綜をどう認識し、どう解いていけばよいのか?

私はいま、<不眠>ではない。しかし、それが解消(解決)したわけではないだろう。たとえば、両親が死んで、兄がひとり田舎の家に取り残されることを想定してみればいい。外的に見捨てることはできても、内的には出来ないだろうから、私自身が、その<不眠>を生んできた家庭という現場をなんとかしていかなくてはならない、のではないか? 国家的動乱は、そうした内的葛藤を忘却させてくれるだけだろう。精神科医の斉藤環は、引きこもりの若者は、非日常世界では生き生きしてくる、と言っている。毎日が一定的ではない狩猟民――作家の村上龍は、引きこもりを狩猟民の行動形態と捉えている――の遺伝子が、そこで目覚めるのだろうか? それまでは、ヴァーチャルな世界で波乱万丈なロマンスを夢みて。私がただ思えることは、あの引きこもりの入り口が、時空を越えた他の人たちを招き入れてくれた、ということである。ならばそれが、ここの私という限定を超えて、普遍性ということにつながっているのではないか? あるいは、他人たちとの共存の可能性として開かれているということなのではないのか? 私は、静かに寝入っている、もうすぐ2歳になる息子のことを思い浮かべる。いまでも、寝付かすのは難しい。魔が憑いたように泣き出す様は、まるでひとりでは眠ることができないかのようである。私は赤ん坊をその夢魔から気を散らそうと、抱いてはゆすり、腹話術でぬいぐるみに口を聞かせ、笛を吹く。あたかも人類の技芸とは、子供を寝付かせるためにあみだされてきたのではないかと思えてくるくらい。この子が、私が若い頃そうだったように、両親を心痛させる、引きこもりを引き継いでいくのだろうか?


菅原正樹
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