農本主義と教本主義

 私は郊外に生まれ育ち、農村に住んだ経験は無く、農村の前近代性というものの直 接的な「被害」を受けていない。既にそのような人間が日本人の多数派である。――
 しかし、農本主義とはもともと都市からの帰農をめざす思想であり、むしろ農村の 原産物ではない。だから、農本主義は、今でもかつてと見かけ上ちがう形で有る。そ して私は、それは私の生れ育った郊外にこそ変形として有るものだと思う。

 1930年代の大不況下の日本では、都市で失業した労働者を小作人として大量に吸収 するプールとなった農村において、それ以前に実質的に没落したはずの地主層が反動 的な封建的支配を再現するかのようだった。現在の学校、あるいは学校が集合する 「郊外」という地域はそれと似た位相にあり、そこではかつての地主層と小作人との 関係が教師と学生との関係に変形されて在る。

 つまり、学生(小作人)だけでなく、教師(地主)も既に没落したはずの半失業者 である。単純な事実として、情報化社会のなかで教師の労働生産性は低下している。 たんに「労働力」としてみれば、学生も教師も等しく潜在的な世界市場で競争を強い られる存在であり、実際には、学校・郊外には、学生・教師を問わず「生きた」労働 としての教育=学習はほとんど無い。それは、学校総体の資本生産性の低下を意味す る。

 学生(小作人)と教師(地主)の差は地位(土地)という既得権の有無のみである が、それが決定的な差となって封建的支配を再現するかのようだ。体罰・セクシュア ルハラスメント、そしてそれら教師の権力の再演としての子ども間のいじめ。現在む ろん教師はバカにされることが少なくないが、ではにもかかわらず何故あんなにも多 くの大卒者が教師になりたがるのか?といえば、「得」がそこにあるからである他な い。上野千鶴子が「この不況期に大学院進学者を増やすことは、これからますます増 大するであろう若年失業率隠しになる」(『朝日新聞』1998年9月22日付夕刊)と書 いたのは不正確である。「失業率隠し」というのなら、若年失業率というより、上野 を含む総失業率隠しといわなければ、不公平である。というより、このような発言自 体が封建的支配の「結果」である。「原因」でもある。

 そもそも「教育産業」(公立学校であれ私立学校であれ塾であれ産業である。差別 しないでね)は、「結果」と「原因」を区別しがたい循環型世界である。それは、教 育産業が、生産――研究という情報(ソフト)であれ労働力商品としての教員・学生 (ハード)であれ――であり、他方でその消費でもあるという不可分的な二重性とし てあるということである。だからこそ、学校の生産性がどんなに低くなったとしても、 「教育産業」が消費の対象でありうるかぎり、「教育産業」には労働者およびその予 備軍が吸引されえる。生産と消費とを不可分的な二重性として内包しうるものは、言 い換えれば、相互扶助単位としてのネーションにほかならない。柄谷行人は不登校が 消費者運動としてのボイコットではないかと述べたことがあるが(村上龍との対談 「時代閉塞の突破口」、『NAM生成』所収)、場所としての学校とは生産手段であ り、その拒否は、生産者運動としてのストライキである。消費者運動としてのボイコッ トとは、学校という場所ではなく、「教育産業」に対して組織しえるし、するべきも のだ。

 90年代以降一般に国家官僚が批判されるようになったが、80年代までにある程度批 判されてきた文部科学省は現在却って批判されなくなっている。寺脇研という現役文 部科学官僚(現在文部科学省文化庁文化部長)がマスメディアで「活躍」しているの は、他の省庁では考えられないことだ。日教組は既得権を防衛しようとして文部科学 省と癒着を始めたが、重要なことは、教師と学生・生徒が世界市場で潜在的に競争し ているからこそ、この癒着が、「そのまま」教師が学生・生徒の権利を奪うことを意 味する他ないということだ。これもまた、封建的支配の「結果」でも「原因」でもあ る。国家がやっている日の丸・君が代や検定教科書の強制が学校の生産性の向上どこ ろか低下をもたらすのは明瞭であり、たとえば浅田彰がアイロニカルにそれを批判す る(福田和也との対談「学校は権威ある頑固親父に徹せよ―教育」、『「日本」を超 えろ』所収)が、国家はむしろそれを消費者としての国民にとっての効用をもたらす 「サービス」のように行っており、だからこそ性質が悪い。つまり教師の「得」とは 利益というより効用である。日の丸・君が代の強制は、いわばトーテム動物としての 昭和天皇を象徴的に食べる(消費する)ことでタブーをつくる儀式である。

 これに対して、農業には、生産と投資との不可分的な二重性がある。すなわち、農 業生産はつねに、暗黙に土地(自然)への投資であり、ハイデガーが企投=被投と呼 んだ問題系と関わる。したがって農業の資本生産性が低い場合であれ、自然への投資 という「資本主義的」観点から農業が肯定されることがある。ここにあるのもネーショ ンであり、それは「永続性」というネーションのもう一つの要素に関わる。農本主義 とは、このネーションを肯定するイデオロギーである。そして、教育におけるネーショ ンを肯定するイデオロギーを、私は「教本主義」と呼びたい。

 現在の日本で支配的なのは、農本主義よりもむしろ「教本主義」である。「教本主 義」は戦後日本の「成功」あるいは「失敗」の原因を教育に還元する。一般に、老い も若きも学校に向う。それは「生涯教育というよりは「学校に帰れ」といわんばかり の傾向である。学校に向うことはまずは個人の自由であるし、他人から見ても真っ当 な選択でありうる。しかし、全体的な傾向としての「教本主義」は教育によるある種 の「革命」のヴィジョンだが、国家=政治の悲惨な現実からイデオロギーとして反動 的である。それが教育の問題を真に解決することはありえない。

 最も怖いファシズムは、恐らく「教本主義」と農本主義とがつながることである。 とはいえ、それに対抗するためには、現実の批判が必要であり、イデオロギー批判は そのためのたんなる出発点である。恐らく、必要なことは、概念的あるいは組織的に は生産・消費・投資を明瞭に区別することであり、実存的あるいは個人的には、それ らを一体化してしまうことである。(了)


鈴木健太郎
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