新たな学生運動のために

1.絶望から数歩離れて

 以前『ベーゼ モア』というフランス映画を観たことがある。"Baise moi"とは"Kiss me"ではなく"Fuck me"のことで、「姉妹」のごとき2人のヒロインが、J・L・ゴダールの『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』のパロディ風でもある逃避行の中で、性と暴力を快楽的に追求する映画である。フランスで極右勢力の上映阻止運動を受け上映が公開1週間で中止となり、上映阻止運動への抗議にはゴダールやソニア・リキエル等も参加したという。監督を含め製作者の殆どは女性である。
 『ベーゼ モア』では、2人の女が冒頭で輪姦された後、銃を手にし立ち上がる。彼女らは別に強姦犯人たちに復讐するために銃を取るのではないものの、世間のありふれた男たち、そして彼らに性的に従属する娼婦たちが、行き当たりばったりで彼女らのその都度の「敵」となり、ことごとく殺戮されてゆく。輪姦から始まり最後まで、性行為はたんに悪としてしか現れない。
 ヒロインたちの動機は、女性における「原理主義」のようなものであり、「イスラム原理主義」同様この「原理主義」の背景にも、女性にとって絶望的な現実がある。輪姦の場面以前に、冒頭に「フランスのどこに仕事があるというの」という科白もあった。『勝手にしやがれ』や『気狂いピエロ』の明るさは、『ベーゼ モア』には無い。ただし、この「絶望的な現実」よりもっともっと過酷な現実が世界にあるのは、言うまでもない。そして、『ベーゼ モア』における悪と、悪に反抗するヒロインたち自身の悪との対決の美学は、ありきたりである。しかし「イスラム原理主義」を駆除することができないように、こうした「原理主義」を嘲笑して済ますことはできない、現実的に闘争する新しい社会運動が提起されないぎり。――実際には、このようにヒロインたちを「冷静に」評価しようとする男もまた射殺されるのが、『ベーゼ モア』の世界である。ただ私が言いたいのは、学生という立場が女性という立場に似たものであり、したがって学生運動の問題がフェミニズムの問題と並行的にあるだろうとい うことである。

 女性も学生も、人口構成上は、マジョリティでないとしても、マイノリティーとはいえない。にもかかわらず、マイナーな立場にある。だからこそそこには「原理主義」が出現する余地があると思う。「イスラム原理主義」もそのようにしてあるからだ――実際に「原理主義」を支持する者は少数であり、参加する者は更に稀であるとしても。学生の場合は、既に「原理主義」は虚構ではなく現実である。たとえば、オウム真理教(現アーレフ)の起こした事件は一種の「仏教原理主義」であったが、彼らの持ち出した「仏教」はあまりに恣意的なものであり、オウム真理教はむしろ学生の「原理主義」であった。

 学生運動の絶望的な形態は、それが過激化した60年代に内ゲバとして現象した。スガ秀実は、『革命的な、あまりに革命的な』(作品社)で、内ゲバを論じる際、連合赤軍の内ゲバと、革共同両派ならびに解放派の内ゲバとを峻別することを主張した。スガ氏によれば、前者が脱落者の訓練(ディシプリン)のためになされたのに対して、後者が敵対集団の管理(コントロール)のためになされた。これは重要な区別である。それが、来るべき運動が自らの内なるディシプリンとコントロールという2種の権力形態を超克しなければならないということを示唆するがゆえに。前者の暴力がネーションの暴力だとすれば、後者の暴力は国家の暴力である。彼らは日本帝国主義のネーションや国家に対抗するために、自らのネーションや国家をつくり、自滅したといえる。
 そして、オウム真理教事件は、両者の暴力を綜合するネーション=国家の暴力、修業(ディシプリン)であると同時に洗脳(コントロール)である権力の暴発であった。絶望が「原理主義」に最終的に化体するのは、この綜合においてである。それが多く若者を惹き付けたのは、ネーション=国家が資本主義からともかくも「自立」しているように存在した(する)からではないだろうか。
 オウム真理教のごとき「原理主義」を措くとしても、例えばひきこもりも子ども、学生あるいは若者の絶望形態であろう。『ひきこもりカレンダー』(文芸春秋)の著者勝山実が自らを「専業子ども」と定義するのは、まさに子どもが子どもであり続けようとすることの純粋主義の開示である。ひきこもる人は、世代交代が日々進行する「時間」的な家族というよりは、家庭という「空間」のみを必要としているように見える。それはある場合には、あたかも家庭を寺院の代わりにしてしまうような行為であるようだ。あるひきこもり者が次のように語ったという。《ひきこもる事は完全には悪くないんですよ。とても退屈かもしれないけど、しかしある時、それはまるで宗教的経験のようです。私の部屋は私にとって教会のようで、私は自分が何か他ではありえない経験をしているように感じました》
 これは、オウム真理教がしばしば暴力に訴えても信者に家族との対立を強制し、「時間」=歴史の積み重ねを必要とする寺院=建築をも拒否し、たんにサティアンという「空間」のみを所有したことと重なって見える。これはひきこもりとオウム真理教との類縁性の主張ではない。絶望する若者がとても多く、中にはオウムに入信する者もいる程に多いということである。そして、保守・右派がかつての学生運動の反体制性とオウム真理教とのそれを直結したのは、それこそまさに形骸化し果てた学生運動の霊魂の生まれ変わりを「発見」(発明)する神秘主義にすぎない。また女性のひきこもりは相対的に少ないが、女性における自傷行為や摂食障害の「流行」が、自らの家庭でさえなく自らの身体へのひきこもりのごとくである。

 私はひきこもりではなかったが、精神的・肉体的に学校に行くのがしんどい時期が長くあったし、ひきこもりは他人事ではない。しかし、私がひきこもりに同情や共感を持とうとしても仕方がない。言い換えれば、大岡昇平が『俘虜記』で「自分と同じ原因によって死ぬ人間に同情しないという非情を、私は前線から持って帰っている」と考えたのと同様に、私は「ひきこもる人間に同情しないという非情」を私は持つ。そして、大岡昇平に倣って、「事実」を「認識」しなければならない。

 国家やネーションにとって、ひきこもりは理想的な安全弁である。各家庭の親がネーションの代わりに贈与を負担し、ひきこもる子どもは家庭の内部で国王のごとく振る舞うことで国家に対抗するエネルギーを蕩尽する。ネーションの権力と国家の権力が家庭内で分立していることによって、家族的葛藤が内部化され、教祖に権力が集中したオウム真理教のように犯罪を犯したり、反体制性を持つ恐れがない。その意味ではひきこもりはオウムより「先進的な」装置である。いいかえれば、オウムが戦前・戦中の日本軍国主義を再現したとしたら、ひきこもりが戦後日本の支配構造の縮図である。
 一般的に、親は子どもに対するコントロールの権力とディシプリンの権力を持つが、ひきこもる者は、既に親へのコントロールの権力だけは奪っている。それは一家庭という極めて狭い範囲でしか通用しないものであれ、たんにヴァーチャルな権力ではなく現実的な小権力である。ひきこもりでなくても、子どもが相対的に早い時期に親から小権力を奪うことが、日本ではある程度ありふれている。柄谷行人は子どもの犯罪に対する親の責任を問う日本の「特殊性」を批判したが(『倫理21』)、この「特殊性」は、子どもたちから小権力を奪われたことを否認する親(大人)たちのヒステリーではないだろうか。
 いずれにせよ、ひきこもりを母子一体の幼児状態への退行・固着とみなす精神分析的発想は誤りであると思う。私がひきこもりから連想するのはむしろ、子どもが青年・壮年期を「バイパス」していきなり老年期に突入するというライフコースである。ひきこもる者と家族との関係は、隠退した後で家族になじめない「会社人間」のように、「学校人間」が学校から離れた後に家族になじめないという状態というべきでないのか。そもそも、母子一体の状態で子どもは、他のあらゆるものを欠くとしても、少なくとも幸福を感じるはずである。しかし、仮にひきこもり者が多くのものを所有したとしても、幸福を感じてはいないだろう。「専業子ども」とはむしろ「老人」であり、ひきこもりはむしろ熟年夫婦の危機に似ている。そしてわれわれは、ひきこもりに対して「親子の密着」を嘆くのとは逆に、本人も家族も苦しみ、そのことをお互いに知りつつ共に暮らしているにもかかわらず、それが解決に向かわず断絶してしまうという事実に、驚き、立ち止まってみるべきである。

 日本の若者は、ひきこもりの「大先輩」の老人を持っている。戦後43年間の長すぎる老後をひきこもり続けた昭和天皇である。ひきこもりが日本に特異な存在だとしても、それは昭和天皇のひきこもりが世界的に特異であるのと同型である。もちろん昭和天皇が戦争加害者となった後にひきこもったのと正反対に、現在ひきこもる若者は多くの場合いじめなどの被害者となった後にひきこもるとしても。
 精神分析では、大人が子どもに退行・固着することはあっても子どもがいきなり老人になってしまうことはありえない。そして、それこそが精神分析の限界である。現実には「バイパス」が起こり、コントロールやディシプリンの小権力が家庭内もしくは世代間で恣意的に配置されてゆく。真の問題はここにある。それはひきこもりをその縮図とする支配構造そのものがいかにして形成されてきたのかということであり、そして現在それがひきこもりとして再生産(縮小?拡大?)されるのはなぜかということだ。
 この問題を考えるには、コントロールの権力(国家)やディシプリンの権力(ネーション)だけでなく、資本という権力を考えねばならない。資本から相対的に自立しているように見える領域にこそ資本が最も働くのであり、資本こそが「バイパス」さえも平気で建設してしまう。直接的には、デフレ不況下の高失業状態を通じて、「バイパス」が形成される。そこでは「働かざる者食うべからず」ではなく「働かざる者食わざるべからず」という価値観が暗黙に強制される。失業者が食えないで死んだら労働者予備軍のプールがなくなるので資本は困るのだから。しかし同時に、失業状態は続くのだから、「食う者働くべからず」という価値観も強制される。これは「老人」の生き方である。そして現在、それらはむしろ、価値観というより、資本が全般的に強いる命令であって、「働かざる者食うべからず」のような標語とは力が違う。

 ところで、1960年代の「人的資本」理論以来、教育を投資とみなす議論が定着してきている。それ自体は実は新しい理論ではない。もともと歴史的に親が子どもを育てる代償として自らの子どもに老後の面倒をみさせるのが当たり前だったのだから。それは投資という言葉を使わなくても、一種の投資である。したがって近年「人的資本」理論が先進国で改めて登場したのは、むしろ資本主義がある意味で先祖返りし、親各々が自らの子どもを自らの投資で育てるという様式が再び一般化しているからである。更に、その投資の規模が拡大し、同時にリスクも拡大したからである。結果として先進国では、一方で親の階級によって子どもの教育が決定される封建制が復活しているし、他方でリスク回避として子どもを生まない人生を選ぶ人も多い。現在の親は自らの老後の世話を自らの子どもに要求することは減っているかもしれないが、マクロのレヴェルで社会保障負担を若年世代に求めるかぎりでは、昔とやっていることは同じである。したがって、「人的資本」理論は新しくはないが、間違いではない。それを ヒューマニスティックに否定しても仕方がない。
 そして、親が自らの子どもを老後の負担を目的とせずに何らかの「幸福」を求めて育てようとすることが、相対的にヒューマニスティックであるともいえない。それは労働力商品への投資のかわりに、直接的に貨幣を求める投機になる。いいかえれば、親が子どもに労働力商品として貨幣を稼ぐことを期待しないとき、子どもはそれ自体として独自の「貨幣」になる。貨幣でも商品でもない「人間」や「自然」が存在することができないのが、資本主義の鉄則である。
 確かに子どもは、自らの家庭や学校の狭い範囲でしか流通しないにしても、「貨幣」となりうる(あたかも地域通貨のように)。「投機」や「貨幣」というのはたんなる比喩や解釈ではない。歪で矮小であるとしても、そこにある権力構造こそが資本主義的な現実であるのだから。これは、外部からの資本の浸透が家族の解体という事態を生み出すのではなく、逆に昔からある親子の断絶にもともと資本の論理が内包されているということでもある。現在多くの親がひきこもりの子どもを貯め込むことで悩むが資産家が円を貯め込むことで悩まない。それは端的に日本経済のデフレによると思う。
 もし人が子どもの教育を「投資」、あるいは「投機」であると認識すれば、子どもの犯罪に対する親の責任などがわざわざ持ち出すことはないはずであろう。親という投資家・投機家にとっては、損害を被り、子どもの「所有権」を失うという結果が最大の責任なのだから。いわゆる「親の責任」の追及こそは、親に子どもの「所有権」を保持せよと求めてしまうものである。
 「投機家」としての親にとって家庭が幸福であるか不幸であるかが問題だとすれば、「貨幣」としての子どもは、マルクスが論じた貨幣のアンチノミー、「貨幣はなければならないが、あってはならない」を文字通り「身を持って」生きなければならない。つまり、いかなる様相で「自分」が存在することができるかを「身を持って」問うほかない。そして、この2つの立場に和解はありえないのではないか。だからこそ、ひきこもりの本人と家族が共に苦しんでいても、両者の苦しみの種類は根本的にちがうのではないか。われわれは何度でもこの乖離に直面する。大岡昇平が『俘虜記』のエピグラフに掲げたデフォーの言葉「或る監禁状態を別の監禁状態で表わしてもいいわけだ。」の「別の監禁状態」にひきこもりがあてはまるのは、ここにおいてである。

 日本の若者の絶望よりも重い絶望が世界にはあるのは言うまでもなく、マスメディアも若者の絶望に無関心であるわけではない。しかし、最も切実な事態は、この絶望という現実と闘う運動が皆無であることである(むろん「だめ」(だめ連)・「ムルチチュード」(ネグリ&ハート)・「ジャンク」(スガ秀実)などという標語の下に他人と集う若者が極めて少数である)。結局このことが若者の「絶望」の核心である。というより、そのことを除けば、若者が「絶望」を叫ぶのは恥ずかしい。 「だめ」「ムルチチュード」「ジャンク」は、若者の失業を生むデフレ不況を一応肯定した上で、そこからの逆襲をめざすものである。実際、デフレや不況、あるいは失業にさえ、100%悪いことばかりがあるとはいえないし、それを運動に有効活用する方途も無いわけではないだろう。標語の下で少数であれ集える仲間は、それなりに役立つだろう。しかし、それらの標語は、むしろデフレそれ自体というより、デフレに対する責任を誰も取らないことを積極的に肯定してしまうものであり、その限りで無力というより有害である。
 『エコノミスト・ミシュラン』(太田出版)は、デフレ不況がいかに国家のコントロールの産物であるかということを明らかにする。著者たちはインフレターゲット論を主張し、それが財政政策ではなく金融政策によって可能であることを説く。それが経済を人為的に操作しようとするものであるとの批判に対しては、インフレもデフレも人為的(国家的)であることにおいて同断だと応答する。そして、そこからすれば、インフレターゲット論を支持するか否かにかかわらず、デフレ不況がコントロールされたものである以上、政府がそれに対する政治的責任を持つことは確かである。……同書の主張は、端的に筋が通っている。
 そこからすれば、「だめ」・「ムルチチュード」・「ジャンク」に依拠するのは、われわれの日本政府の代わりに外部に「グローバリゼーション」という人間ではない(責任の取れない)「敵」を見つけだす排外主義にすぎない。対抗運動の中にデフレ批判のかけらもないことは、なぜだろうか。そもそもデフレを批判することができない左翼とは語義矛盾であって、左翼は国民通貨の価値の上昇であるデフレを否定するほかないはずである(インフレを肯定するかは別にして)。ひきこもりと同様、対抗運動も、コントロールの小権力の配分を受けているうちに、国家という大権力のコントロールによるデフレに鈍感になってしまった。今後に日本にインフレ/好況が到来してさえも、10年を超えるデフレの後遺症として、ある「封建遺制」が引きずられることになると思う。


鈴木健太郎
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