持つべきものは……


1 スローデス
 辻信一氏の発言を最近のジャーナリズムで目にすることが多いが、私は辻氏に対していつもあきれている。「あきれる」とは、こちらも最近人気の橋本治氏が、「思いつきでものを言う上司」に向かって「部下」が取るべき態度として推奨する行為である。ここで「上司」というのは、年功序列的な規制を持つ世間での年長者一般をも指している。そして、「スローライフ」を提唱する辻氏はまさに「思いつきでものを言う上司」だ、と私は思う。
 ここで「あきれる」とは、怒ることでも驚くことでも嘲ることでもなく、悲嘆することである。辻氏本人は、世界や自分の憂鬱を晴らし、希望をもたらす社会運動として発言しようとしているのだが、何よりこの「希望」こそが私を憂鬱にさせるのである。しかし、悲嘆はそれ自体としては「上司」には伝わらないから「あきれる」という表現が必要だ、と橋本氏は主張する。さらに、橋本氏によれば、「部下」は、もしあきれるべき時にあきれなければ、「思いつきでものを言う上司」と同じようなものなのである。

 辻氏は《ぼくたちは待つことがますます苦手になっていないか。》(『朝日新聞』2004年11月1日夕刊「こころの風景」)と語る。しかし、辻氏が、もし本気で「ぼくたちは待つことがますます苦手になっていないか」と考えるならば、まずは例えばタクシー運転手になるべきである。タクシー運転手その他、諸々の末端労働者の仕事とは、根本的に「待つ」ことであり、「待つことが苦手」では務まらないからである。
 下請けの工場においても、「待つ」ことは労働である。労働のなかに忙しい時と暇な時が不規則にある、というのなら、我々はそれなりに「適応」もできよう。しかし、下請け労働には厳密には「暇」は無く、つねに「待つ」という労働があり、精神的な24時間労働である。私が少し前まで勤めていた従業員十数名の企業では、私がいた1年に満たない間に2人が健康を害して退職し、次に私自身が解雇されたのだが(私はアルバイトであった)、上司である部長(役職名ばかりの、自身が健康の限界にある)は、その労働環境を「タクシー待ち」と表現したのである。この企業は町工場ではなくインターネットも用いつつ調査を請け負う会社だが、一般に下請けという〈立場〉は情報技術を持つことで解消されるものではない。
 下請けの人間はたんに「待つ」ということだけでは不安だから、取引先の拡大を試みようともするだろうが、それは「待つ」対象をさらに増やそうとすることである。これが失業者、そしてホームレスになると、専ら「待つ」だけである。……
 ――私のこのような反応を、辻氏は曲解であると考えるのであろう。
 騙されてはいけない。マスコミや大企業の言う「スローライフ」を支えるのは、あいも変わらぬ大量生産、大量消費、大量廃棄の「ファスト・エコノミー」・・・・・・ 
 ぼくが懸念したとおり、いやぼくの予想をはるかに越えて、スローライフという言葉が世間にもてはやされ、企業も自治体もその周りに群がるようになった。
 スローにはもともと「エコロジカル」とか、「持続可能(サステナブル)」とか、「グローバルに対するローカル」とかいう意味が込められていたのに、それがスローライフを誹謗する雑誌などにとり上げられる時には、ほとんど忘れ去られている。
 スローでシンプルな暮らしを目指すものは、やはり、豊かな自然の富に基盤をもつ持続可能なエコ・エコノミー(レスターブラウン)を構想し、創造していくしかないだろう。それにはまず各自、「今、ここ」でできることから、ひとつずつ引き算を始め、スローダウンしてゆくのだ。(『スローライフ100のキーワード』)

 辻氏がそう考えるのなら、しかし、初めから、「スロー」ではなく「エコロジカル」・「持続可能(サステナブル)」・「グローバルに対するローカル」と言えば済むはずである。というより、そう言わなければならない。末端労働者は、まさに「今、ここ」において「待って」いるからだ。
 むろん末端労働者は忙しい時には異常に忙しいし、もちろんつねに極度に忙しい末端労働者もいる。――「早くしろ!」……しかし、いずれにせよ、それもまた根本的に「待つ」――このエンドレスの苦行の終わりを――ことだ。桐野夏生氏の『OUT』は、パート労働者の主婦たちがファストフードであるコンビニ弁当を製造するベルトコンベアの作業が、ただ〈流れ〉を「待つ」ことの苦行であるという現実を、そしてこの「待つ」ことがいつか破綻(アウト)して犯罪に向かう過程を、即物的にとらえる。辻氏は前掲の新聞コラムで「ぼくたち」が「充分に効率的でない自分を責め、急かせる」と書いているのだが、桐野氏によれば労働現場では実はそのような〈自己反省〉の余裕すらなく、パート労働者たちは一定の範囲で一定の運動を繰り返しつつ、なかなかやって来ない「スロー」な終わりをひたすら「待つ」のみである。
 辻氏が言おうとしているのは、「ぼくたち」はこうした末端労働者たちをこそ「待つ」べきだ、ということでもあろう。しかし、そうだとすると、「ぼくたち」とは、労働者自身ではなく、労働者を「待つ」ことができる立場の人間=経営者だけだということになるが、現に辻氏の発言を読む私たちはむろん経営者に限らない。最近日本青年会議所が「スローソサエティ」をめざすことを表明しており、辻氏はその「地域の環創造グループスローソサエティ実践会議外部アドバイザー」でもあるのだから、日本青年会議所「内部」に向けてこそ(のみ)「ぼくたち」と言わなければならないはずである。
 「スロー」な世界を強いられる階層は日々増殖している。その現実と表裏一体に「スローライフ」という概念が世間に「もてはやされ」ている。そして、末端労働者が既に「スロー」な「今、ここ」から更に「ひとつずつ引き算を始め、スローダウンしてゆく」のなら、その先にはただ死があるのみである。これは「スローライフ」ならぬ「スローデス」である。「スローライフ」を享受しうる階層と「スローデス」を強いられる階層が平行に生成されているのが、いわば「スローウォー」(持久戦)としての現在である。スローデスとはもともと放射能のヒバクシャやその子孫がゆっくりと死に蝕まれてゆくエコロジカルな危機を指す。失業が放射能のように「スローデス」をもたらしうるのが冷戦=核時代以降の世界だ。

 要するに、エコロジカルな立場から「待つ」ことを説くのなら、「何を待つべきか、それが問題だ」と言わなければならないし、言うほかない。にもかかわらず辻氏が「エコロジカル」・「持続可能(サステナブル)」・「グローバルに対するローカル」というありふれた概念の代わりに「スロー」という"哲学的"概念を持ち出すのは、したがって辻氏の「思いつき」にほかならない(橋本氏の著書を読むと一般になぜ「上司」が「思いつきでものを言う」のかが分かるので、参照してください。)。そもそも「待つ」というのは「信じる」ということが先行してのみありうる態度であり、「たんに信ぜよ」というのはたんに宗教である。「スロー」や「待つ」こと自体がかくも両義的(曖昧)であるのだから、私や世間がそれらを曲解しているのでも誹謗しているのでもなく、辻氏が自らの言葉を、延いては自身を誤解しているだけである。

 また「スローフード」は、事実として日本という単位での「グローバルに対するローカル」の伝統には存在しない。もともと、寿司も蕎麦も弁当も握り飯も、ファストフードであったのだから。《「メシ食う暇があったり、ウンコする暇があったら、忙しいなんて言うもんじゃねェ」「いつまでもメシ喰ってるんじゃないよ、口の中でウンコになっちゃうぞ!」》(永六輔『職人』)。 もちろん田舎は東京(江戸)や京都・大阪とは様々にちがうにせよ、概して伝統的に日本人は「スローフード」を好んでこなかった。だから辻氏は、日本の伝統すらも「部下」にして、「思いつきを言う上司」である。
 辻氏の言う「スローフード」はむしろ「スロー」な農業生産を指すのでもあるのだが、実際には前近代の農業においても日本は恐らく同時代の世界の他地域と較べてかなりファストな生産をしていたはずであり、現に江戸時代の有機農業すら人糞尿の輸送による当時世界最先端の(ウンコがメシになっちゃう!)テクノロジー=システムであって、これに干鰯・油粕を含めて既に金肥として取引されてさえいたわけであり、すなわち江戸は、エコロジカルな循環を市場経済における効率的な流通において達成しようとしていた。要するにこれは日本伝統のファストフードはアメリカのハンバーガーやフライドポテトとはちがってエコロジカルなファストフードであるということでもあり、現在そのエコロジーがローカルを超えてグローバルに受容されている。そして、傷みやすく、しかしだからこそ消化効率がよい食材を、どうやって手早く調理するのか――という課題への回答は、広く〈環境〉の〈料理〉法として日本の伝統に脈々と存在する美学でもあり、橋本治氏はこれを古典文学という「上司」に頭を下げて学ぶ「部下」である。もとより世界各地の〈環境〉と〈料理〉はそれぞれに普遍的でありうるにせよ、日本の伝統を「部下」とするよりは、一度正面から「上司」としてみることの方がずっとエコロジカルであるのは間違いない。それは、この姿勢によってこそ私たちの伝統という「上司」の持つ「思いつき」を「あきれる」ことができるからでもある。

 私は、他人の行動が無力・無知・無能であることが仮に分かっても、そのことをいちいち指摘する親切心・趣味・暇が無い。だから、私が辻氏に「あきれる」のは、辻氏が有力・有知・有能な「上司」として「思いつき」を述べているからである。(私がNAMのメーリングリストでほんの時折「上司」の批判めいたことを書いていた動機も、これと同じであった――ただし怠惰な「部下」として。)
 「スローソサエティ」をめざすと宣言する日本青年会議所とは、「地域」の若手経営者の集団である。すなわち、私たちにとって相対的に身近な「上司」の集団である。もしも辻氏が彼らに利用されていたり、辻氏の提唱する「スローライフ」を悪用しているのだとしたら、要するに辻氏自身は根本的には無力だということである。しかし、実際には日本青年会議所は、多少の誤解があるにせよ、辻氏や「スローライフ」を、素直にそのままで必要としているのである。それはサイトを見ても分かる。すなわち「スローソサエティ」は偽善ではない。なぜ彼らが「スローライフ」を必要とするかといえば、銀行に代表される大企業集団がますます巨大化する中で、地域資本にとって「スロー」な「地域に根差した経済」を確保することが、明らかに死活問題であるからである。
 しかし、もっと根本的にいえば、地域資本という〈現場〉において「スロー」が死活問題になるのは、資本一般が〈現場〉の労働者が「待つ」ことを、「早くする」ことの基底において、つねに暗黙に求めるからだ。高失業率時代にあってその求め方は明白さを増す。若者は、かつての学生運動――辻氏も元学生運動家であるが――が批判したように潜在的労働力商品としてあるのではなく、たんに潜在的失業者であり、とりわけヒキコモリは、まさにひたすら何かを待ち続けてきている者たちである。待ち続けるうちに何を現実に待っているのか分からなくなるとしたら不条理劇であり、現実と劇との区別がなくなるということでもある。しかし、効率を追求する資本主義こそがこうした非効率を現実に(劇的に)必要としているのである。
 この現実(劇)は資本の限界などではなく、これを認識しないエコロジストたちの限界である。この現実(劇)にブラインドな「ぼくたち」の「スローライフ」の主張は、それ自体として資本にとって崇高な目的である。私たち労働者=失業者が資本を「待って」(信じて)いるからこそ、資本は私たちを「待つ」(信じる)必要はなくなる。ただ忘れていられる。(以下次回に続く)
鈴木健太郎
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