2 再生産というアンチノミー


A『NAM原理』は、消費者としての労働者による流通過程における運動を強調していた。しかし、現にNAMにおいて問われなかったのが、実は労働力商品の流通過程に他ならない。アルバイト・パート・フリーター・派遣社員・契約社員等々という種類の労働力商品が層として出現したことは、もちろん大量生産・大量消費の使い捨て商品の流通拡大の中の一部である。だからこそ例えば、現在社会運動の主流になっているエコロジスト系の運動家が、今日のフリーター的若年層の出現を、ボランティアに積極的に参加しもする(これは事実)なかなかに有望な連中として歓迎(肯定)して(さえ)いる様というのは、根本的に自己欺瞞である。NAMは原理的にそのような欺瞞を「批判」しなければならないはずだったが、実際には逆にそのようなエコロジストがヘゲモニーを握ったし、そのことに対する反省も皆無である。……

――しかし私は、スガ秀実が今日の若年層のジャンク(失業者)化からの「ジャンクの逆襲」を説くことこそが、真の「環境問題」の提起ではないか、と思うのだ。

B:他方で、柄谷行人は確かに、フリーター的若者に対して、フリーターをやっていても仕方ない、起業せよ、そのための準備を学生時代から始めよ、とも述べていた。すなわち、いかなる形でも労働力商品になるな、というわけである。しかし、柄谷でも誰でも今日フリーターという労働力商品の直接・間接の消費者であるのだから、『NAM原理』にしたがうかぎり、まずは消費者として、フリーターという労働力商品を直接・間接にボイコットせよ、ということになるはずだ。だがそうすると、現在流通しているほとんどすべての商品を購入できなくなる。だから次には、代替的な――起業や転職も可能である程度に「優秀」で「自由」な――労働力(労働力商品ではない労働力)を生産せよ、ということになり、具体的には例えばフリースクールでそれをやろう、ということになるだろう。そして実のところ「優秀」で「自由」な労働力(労働力商品ではない労働力)を求めるのは、今日の公教育改革とても同様なのであるが、しかしNAMがやろうと国家・自治体がやろうと、それらは教師や親が子どもを「もっと、もっと」、「教育産業」の生産手段として用いるということである他ない。(公立の学校であれ何であれ、教育に資本が投下されるのであれば平等に「教育産業」と呼ぶべきである。)すなわち、子どもが将来的にフリーターに(あるいは「少なくとも」ホームレスに)ならないで済むようにすることを目的とすると、結果として子どもは、現在においてフリーターあるいはホームレスと同様の「生産手段」として将来の材料となるのである。スガが批判してきたとおり、キャンパスを持てない専門学校や、寮・部室の無い大学において、高等教育を受ける学生ですら既にかなりホームレス的(潜在的失業者)である。だから、村上龍(金持ち父さん!?)の『13歳のハローワーク』は、和製英語を排して『13歳の職安(公共職業安定所)』と呼ぶべき本である(村上龍は「フリーター」という和製英語には反撥していたのである)。そして実際には、「現在」の社会構造が変わらないかぎり、「現在」の「13歳」の少なくない部分が「将来」においてもフリーターやホームレスという階層に組み込まれ続ける他ない。……

 このABとが、「環境問題」である――資本主義による労働力商品化の肯定も否定も欺瞞に陥るというアンチノミーとしての。誰もこのアンチノミーを避けることができない。それは他ならぬNAM内部からも、そしてQプロジェクトからも生成してきたのだ。まさにフリースクールがつくられようとしてうまくいかず、また日々の事務労働をやる人の多くがフリーター的な立場であったり、そして次には勤めていた会社を辞めて無職になったりする人も出てきた。そのなかから、必然的に、「ジャンクの逆襲」が、言い換えれば「労働力商品化の無理」(宇野弘蔵)が、発生してきたのである。
 そのような人たちは、事実として「柄谷ファン」に限らなかった。というより、単なる「柄谷ファン」はそのような〈自己犠牲〉を何だかんだ言って避けたのである。しかし、〈自己犠牲〉は避けられても〈犠牲〉一般を避けることはできないのであり、それはまさに労働力商品化のアンチノミーの不可避性から来るものだ。そして、この問題はNAMに限らず社会運動一般に存在するのであり、したがって、柄谷がNAMの失敗が「柄谷ファンクラブ」になってしまったことにあると「総括」するのは(『文學界』2004年11月号、柄谷行人・浅田彰・大澤真幸・岡崎乾二郎「絶えざる移動としての批評」)、単にNAMや柄谷自身のためだけの合理化としての、普遍性を欠く「内省」にすぎない。そもそも文芸誌に大学教授が4人集まって共同討議しているのがとてもおかしな事であると私は思うが、それ以上に、まさに「ジャンク」の生産現場に日々いる彼らがその生産についてまともに「批判」できない(しない)という内容こそ、真に「あきれる」べきことであり、これに対しては「金持ちけんかせず」という俚言がふさわしい。もとより文学自体のジャンク化をスガが指摘したのは既にかなり前であるのだから、事態は通底している。

 「逆襲」や「無理」など無いかのように考えてきて「逆襲」や「無理」に直面したことを突然に嘆くのは、馬鹿げている。また「逆襲」や「無理」自体は、宇野が言う通り恐慌の可能性であって、それ自体は革命の可能性ではなく、つまりは「環境問題」でもある。2ちゃんねるの集団恐慌=ヒステリー(「貧乏人けんかする」!?)も「環境問題」。だが本当は、こうした構造をたんに〈外〉からではなく、同時に子どもや学生自身の側から見るとどうなるか、ということこそが重要であり、そして結局、教師や親と子ども・学生との権力関係を変える以外に、道は無いだろう。つまり、学生運動にしか。この権力関係は主人と奴隷との関係ではないし、かといって資本家と労働者との関係でも無く、教える者と学ぶ者との権力関係である。学生運動とはいわば、学ぶ者としての教える者による教育過程における運動である。
 そして、この「逆襲」や「無理」が「環境問題」であると真にいいうるのは、それらが労働疎外論もしくは自然疎外論――自然に存在する労働力の再生産が人為(資本)によって理不尽にも狭く商品化=疎外され、労働本来の価値が奪われる――という思考から導き出されるものではなく(そもそもスガ秀実によれば、仮に労働価値説を肯定すると労働力商品は現実には最も労働価値説が当てはまらない商品である。『革命的な、あまりに革命的な』参照)、むしろ労働力商品に限らず、また商品一般さえをも超えて、広く再生産過程=「持続すること」が《必要》であるかという普遍的な問いをめぐるアンチノミーを開示=喚起するとば口である、とみなしうるからだ。言い換えれば、菅原正樹氏が示唆するように、いわゆる環境問題自体が持続可能性(サステナビリティ)――人為的であれ自然的であれ――以前に、持続(遅延)の意味自体=持続必要性をもともとアンチノミーとして内蔵しているというべきであり、このことは例えば岡崎京子が『リバーズ・エッジ』でいわゆる環境問題の周縁(edge)において表現することに成功していたし、人類史的にいえば、患者の生きる力を助ける医術(ヒポクラテス)と死ぬための方法をつかむ哲学(ソクラテス)がギリシャ=世界において全く同時代に現れた時点から明らかなことだ。何が持続すべきであり、何がそうでないか。これを知への愛として(as philosophy)腑分けし、これを学ぶことを通して教えることができるのが、子どもであり学生であるべきだ。そのような〈場所〉にあっては、子ども・学生が自らを(再)生産する労働者なのか、あるいは教育=サービスの消費者であるのかが、誰にとっても(子ども・学生自身にとっても)徹底的に曖昧(ambiguous)であり、曖昧(ambiguous)であるがゆえに消費=労働運動の可能性がある。ここにのみ「逆襲」や「無理」のアンチノミーを革命的に生きる(死ぬ)道があるのだ。

鈴木健太郎
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