親の気持ちがわかるか?


 北朝鮮に拉致された人々が帰国したとき、私は外国の学校にいた。私は翌年帰国し、「国民」が北朝鮮への憎悪を剥き出しにしていることを知った。「国民」は「敵」を外部に見出していた。現在まで「国民」が叫んできている「経済制裁」は、日本国家が江戸=鎖国時代のアジアですら実行しなかった政策であり、国家とは無縁につくられてきた民衆同士の相互関係を、国家によって破壊してしまえ、という「国民」の願望である。「国民」は、拉致被害者、というよりは拉致被害者の家族の「味方」になってもいた。

 拉致被害者の家族は、拉致被害者ではない。いかに拉致事件による悲しみが大きくとも、である。――こういうことを述べると、親の気持ちがわかるのか、実際に自分の子どもなり兄弟なりを拉致されていないからそんなことがいえるのだ、人間の情、もしくは想像力を持て、と言ってくるのが、家族会の活動の「味方」となっている「国民」の声といってよいだろう。――しかし、拉致されたまま、現在も北朝鮮に生きている(であろう)人たち自身が、果たして家族会のように「経済制裁」を望むのだろうか?と、私は想像する。

 自分の子どもが北朝鮮に拉致されたらどうするのか?と問われれば、その場合でも「経済制裁」に反対する、と私は答える。しかし、それ以前に、自分の子どもが拉致されたら、を仮想することは、もともと<想像力>の問題ではないだろう。自分の子どもは拉致されていない、そもそも自分の子どもなど持たない人間が、そのような自らに固有の立場から、現在北朝鮮にいる拉致被害者自身が何を考え、どう生きているかを直接に思うときにのみ、<想像力>が存在するのだ。

 しかし、拉致問題以前から、近年の日本のマスメディアは、一般に「親の気持ちがわかる」ということを問答無用に前提とし、わからない者はわかることを強要されてきたのだ、と思う(ホリエモンは間接的にこうした雰囲気に反撥したといってもよい存在だが、そのホリエモン自身がメディアの父親=王になりたいという欲望を持った男であった。)。そして拉致問題はこの前提を全面化するものとして働いていると思う。例えば小説家のよしもとばななが日記でこう書いていた
 雨だ・・・。
 岡崎さんのおうちにお見舞いに行った。会うのは十年ぶりだ。
 ずいぶんとお姉さんになって、顔色もよく、チビラくんをかわいいと言ってくれたし、バイバイと手も振ってくれた。「果たしてなべおさみの名字は?」という話題のときには足をばたばたさせてすごく受けていた。受けどころがなつかしい岡崎さんのままだった。やっぱり事故は岡崎さんをうばうことはなかった。
 どうしても子供に話しかけるような態度になってしまうが、前みたいにばかなことを話しかけてみよう、今度は。
 リハビリを応援し続けたいし、近所なのでまた会いに行こうと思う。
 岡崎さんのお父さんとお母さんは、横田めぐみさんのご両親と同じ表情をしていた。娘のためならなんでもします、というきれいな顔だ。親というものの顔だ。私も今ならそれがよくわかる。わかるだけに、子供を誘拐したり殺す人を絶対に許せない。
 1996年の交通事故の後ずっと実家で療養を続けている漫画家岡崎京子に見舞いに行ったことが書かれており、私は岡崎のファンだからたまたまこの文章を読んだのだが、読んでからずっと嫌な感じが残っている。最近自らも親になったよしもとばななは、横田夫妻と岡崎の両親の心を「親の気持ち」として同一視し、そこに自らの気持ちを同一化させている。実際、横田夫妻と岡崎両親の心には共通する部分があるといってよいだろうし、またよしもとの気持ちが確かに彼らと共鳴してもいるのだろう。しかし――、「親というものの顔だ。私も今ならそれがよくわかる。」と書くことは、小説家の仕事なのか?

 親が子どもに「親の気持ちがわかるか?」と述べるとき、子どもは自分の親の気持ちを「知る」ことを強いられる。たとえ親がそういう言葉を口にしないとしても、子どもは暗黙にそれを強いられるだろう。これに対して、よしもとが「親というものの顔だ」という時には、自分の親ではなく、親一般の心、というものが想定されている。
 親の心子知らず、という諺があるが、自分の親が我が子の愚かさを嘆く心など、子ども自身は初めから知っている。嘆きを意識(言語化)するのは親だが、無意識においては最初から子どもの方がむしろ親自身よりも深く親の嘆きを知っているはずで、その意味で子どもをなめてはいけない。
 ただし、この時子どもが知るのは、親一般の心ではなく、自分の親の心の方である。そして、親一般の心――、「親というものの顔」とは何か、そもそもそれは存在するのか? ――実際には、多様な親子関係が社会的に存在するだけであろう。だが、よしもとに代表される「親の気持ちがわかる」と言う「国民」は、「親というものの顔」を仮想=仮装し、横田夫妻に共感する。現実には、この「親の気持ちがわかる」とは、親が、自分も<親>なのである、と自己確認していることを意味するだけである。
 しかし、(ある種の)親たちがこんな自己演出的な振舞いに及ぶ「気持ち」すらも、子どもたちは「わかる」、というより「わかる」ことを強いられる、と、考えなければならない。小説家の仕事は本来、そのような「子どもの気持ち」がわかるか? と問い返す<想像力>の運動であり、あらゆる親もまたそのような「子ども」として生まれ生きてきたのだ――、とは、ほとんど言わずもがなである。

鈴木健太郎
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