「層としての学生運動」の可能性


 勤務先近くの図書館の書棚で 武井昭夫著『層としての学生運動』がたまたま目に留まり、借りて来て読んでみる。同書に向けられるべき第一の指摘は、学生という「層」の意味は、基本的に人口学的な、あるいは景気動態的な条件に左右されるということである。

 武井氏が学生であった時期(1940年代後半)において、「層」としての学生及びその予備軍は、分厚かった――後の世代の人口は増え、高等教育への進学率も上がっていく、二重の厚みがあったわけである。そして、この人的資源の「層の厚さ」は、当時における石炭・石油という化石燃料の「層の厚さ」とちょうどパラレルなものであったとも言うべきである(ついでいえば武井氏の著書の分厚さともパラレルである)。
 人的資源であれ化石燃料であれ、空間的な「層」の厚みは、つねに時間的な「期待」の感覚と結びつく。実際、武井氏にせよ、また近年武井氏を再評価している柄谷行人にせよ、彼らが学生運動から身を退いた(大学を出た)後にも、後の世代の学生たちは、彼らから見て不満の多いものであれ(実際駄目な部分が多くとも)、ともかくも「勝手に」自分たちの「学生運動」をやれていたのは確かである。これは、「学生運動」が或る「自律性」を持って継続するという武井氏・柄谷氏の「期待」が一応、とりあえずは、現実に裏切られなかったということである。

 これに対して、60年代末〜70年代初頭に新左翼の学生運動が行き詰まり、セクト同士の縄張り争いに転化していったときには、化石燃料の有限性(石油ショック)と人的資源の有限性(団塊の世代が学校を通過する)、つまり2つの「層の薄さ」がパラレルに現れ、世界的にも、資源が少ないからこそその奪い合いにもエネルギーを費やしてしまう、という矛盾が生じた。村上龍は、この時本当にあっという間に時代の雰囲気が変わった、ということを、まさしく「裏切られた」と言わんばかりに述べていた。
 これ以降、日本の社会運動においては基本的に活動家の高齢化ばかりが進んで現在に至るわけだが、これを批判するために武井氏や柄谷氏が「層としての学生運動」をあらためて持ち出すのは、まずはお門違いである――他ならぬ「層の薄さ」こそが学生運動の最大の弱点となってしまったのだから。

 その後も大学進学率は上がり続け、一度減った世代別人口も第2次ベビーブーマー世代に至るまでは増加する。その「効果」は、メジャーな現象としては、不登校問題とか、暴走族とか、あるいは尾崎豊の学校への「反抗」という形態で吹き出してきた。しかし、これらもまた、バブル時代に若者だった世代までの現象であり、人口-景気動態に規定されたものであるのはいうまでもない。
 斉藤環は、不登校世代の親たちは就労支援に断固反対するけれど、その発想ではひきこもり世代に対してはどうにもならない、と語っていた。私は、攝津正と「だめ連」創設世代らとのやりとりにも、この辺りのギャップを見てよいと思う(「あかね」とフリースペースムーブメントの可能性)。
 「層としての学生」を化石燃料の地層に喩えたアナロジーを敷延すれば、70年代〜80年代における若者の「反抗」形態、すなわちヨリ個人的な=原子化された形態での「反抗」は、その時期に盛んに建設された原子力発電所に喩えられる形態でのエネルギーの発散であっただろう。すなわち、「自然の摂理」を超えようとする「原子的な」衝動である。もちろん、それは同時に、リスクを後続世代にもたらし続けるバブル経済の中の出来事であった。実際、80年代末には既に環境問題のリスクの方がメジャーな「問題」となったのである。

 ただし、注意すべきことは、この問題提起が現実には未だ「後続世代」による批判として出てきたものではないということである。むしろ、自然破壊をしてきた世代に属する人たちが、そのことへの「自省の念」に駆られたりしながらやっている運動が中心である。人に「自省の念」が生まれることは基本的に良いことだろう。しかし、それは犯罪者が「真っ当な刑」を受けるのは良いことだ、というのと基本的に同じことで、それ自体は別に積極的な社会運動ではない。そしてまたこうしたエコロジーの隆盛は「学生運動」の動向とも基本的に別の流れであり、だからこそ、相対的に多くの学生がエコロジー運動に参加してきていても、学生はそこでは学生としては「主体」ではありえないはずだ。

 しかし、私の予測では、「層としての学生運動」の意義が復活するのは、むしろこれからである。それは、「層の薄さ」が、他方で「層の広がり」でもあることが再定義されるときに顕れる問題系であり、それは武井氏や柄谷氏の想像を超える文脈においてである。この「層」は、我々をいつでも下支えしてくれる「地層」――この期待は地震=断層によって裏切られる他ない――とちがい、むしろつねに流動する「気層」である。ただし、流動とは「無原理」ではなく、むしろそこにはいつでも或る「原理」が働いて(流動して)おり、だからこそ風力発電も可能である――それは、ハリケーン的な<渦>の原理として運動化されるだろう。

鈴木健太郎
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