渦としてのフリーター運動


 9・11後ブッシュが行ったのは、結局は復讐戦争だけであり、それは国民世論を動員する上でも、また政策を実施する上でも、今後のニューオリンズ復興よりは、はるかにたやすい課題だったはずだ。9・11後、ブッシュ政権は、軍事・治安政策に関して、国民の多数から、無条件の信任を得る有利な立場を維持してきた。今回の失策がブッシュの本質を露呈させ、過去4年間続いた米国政治の基調が、ついに変わることになるのだろうか。(佐藤学「カトリーナが暴いた米国の現在」、『世界』2005年11月号)
 1995年の阪神・淡路大震災と2005年のハリケーン-カトリーナは、民衆の国家への信頼を失わしめたという意味では同じ効果を与えているが、信頼関係を失った国家と民衆とのその後の道行きについていえば、正反対の効果をもたらしている。----失われた住宅(都市)を再建するという政策課題が茫然自失の内に国「家」の再建(re-form)という欲望へと済し崩しに吸収されていった日本と、住宅を失った被害者が即時的に国「家」への批判[者]へと直結するアメリカ。----ここには日本人の側の(市)民度の低さがある。
 しかし、「10年遅く」天災がやってきたアメリカでは、テレビ局がカトリーナの現場報道を「10秒遅れて」流していた(ブッシュ政権批判[者]の「乱入」を予防するため)という事実からも、アメリカというメディア-環境が最早《世界》から取り残されて「10秒前(10年前)の世界」に入ってしまったのも現実であろう。イラクでアメリカ人が経験している戦場すら、「10年前」からボスニアやチェチェンで経験されてきた光景の後追いである。


 このアメリカと好対照のように何時か再来する他ない震災に怯えてきた日本は、韓国や中国の世界政治/経済での発展/成長に直面してさえも「自然現象」に対するように自閉し、実際的な外交を放棄し、《靖国》に引きこもろうとする。しかし、フリーター問題という、自然としての人間が不可避的に生み出すハリケーン、《渦》を回避することはできない。
 フリーターとは誰(何)か? という問いは、たんに経済学的に答えられるものではない。フリーターは「周辺労働者」や「下層」という概念と無関係ではありえないが、単なる階級的視点からは、実存としての選択という契機が零れ落ちてしまう。またそのことにより、全く実存的な契機を求めない(ような)者も含めたフリーター一般もまた視野から排除されてしまう。
 そして、資本(理性)の要請こそがフリーターを生成してきたということは最近つとに指摘されるようになってきているが、そもそも人口学的な現実が、資本(理性)の外部にある。それは貧しい「から」産まない、という経済学的な「直接」が成立しないと同時に、貧しく「とも」産むという実存的な「逆接」でも包摂できない巨大な「自然」である。根本的には、そのような「自然」こそが若者が巻き込み、フリーターという《渦》を産生しているのだ。
 少子化による親や教師の甘やかしがひ弱なフリーターやひきこもりを生んでいる、という意見は、最近はさすがに浅薄な俗見・謬見とみなされるようになっている。ただし、少子化・高齢化社会下、国家による社会保障制度では支えきれなくなったサラリーマン層を切り崩すという意味では、資本(理性)がフリーター層を必要とするのがむしろ至極当然のことで、謎は何もない。謎はむしろ、なぜ「国民」という規模で少子化・高齢化(衰亡)が生じるのか、ということである----ありふれた問題だが、誰もこの問いに理論的に答えることができた者はいない。

3


 私は、別にフリーター現象/問題の客観的分析をしたいわけではない。私自身のフリーター経験を語りたいわけでもない。私は、「フリーター運動」が創出される契機を探りたいだけである。
 今後のたたかいの主戦場は《存在権》----生存が単に生存であり続けることを肯定する権利----をめぐるものとなるだろう。 存在を抹消し、この世からなかったことにする権力=暴力と、それに抵抗するエナジーの間の(見えない/むき出しの)闘争になるだろう。前者はますます陰湿に、狡猾に、だが圧倒的に勢力を高めている。消し去られていく側の存在、多元的な存在たちは、もはや黙ってすべてを放置するわけにはゆかない----フリーター階層の権利宣言、権利を勝ち取るための持続的なたたかいが不可欠となる。しかし、そのたたかいのスタイルは、何重にもねじれざるをえない。共同体道徳であれ他者倫理であれ、従来の多くの哲学は、「自分のため」か「他者のため」のどちらかしか考えて来なかった。
 大切なのは、日々の労働と生存の継続を通して認識をわずかに転回、分岐させること。「自分だけよくてもダメだ」という信と共に、現状分析と未来への提言を押し進めるために、まずは一歩を踏み出してみることだ。
 (杉田俊介『フリーターにとって「自由」とは何か』、「フリーターに関する20のテーゼ」の【20】)
 「生存がたんに生存であり続けることを肯定する権利」とは、言い換えれば、諸個人の「偶然的な」選択を「肯定」することである。それは例えば次のように考えることだ。----収入の低い親を持つ若者はかなり「必然的に」フリーターになりやすいが、その若者がその親の下に生まれたことは、なお「偶然的」である。----あるいは、若者はフリーターから脱出する「必要がある」と言われるが、脱出できるか否かは、窮極的に「偶然」の問題である。すなわち、フリーターの「フリーター性」とは、「偶然性」として捉えるべきものであり、それは《渦》としてイメージ化しうるものである。そして、フリーター運動の可能性も、そのような《渦》そのものにおいて見出されるべきである。さもなくば、フリーター論はそのまま「下層社会論」に回収されてしまう。

 従来のサラリーマン(正社員)とは、いわば「渦度が低い流体」である。そこには「回転する中心」があり、全体がそれに乗って「回転」しているが、個々のサラリーマンは自身は「自転」(revolution-革命)を強いられることなく、中心との一定の適当な距離を保ちながら、流れに乗り続けることが可能である。
 これに対して、フリーター層全体を包括する共同性=コミュニティとしての「中心」は、今後フリーター層がいかに拡大しても、もたらされることはないだろう。フリーター層は、中心ではなく、その外部からの回転によって形成された「渦度が高い流体」であるからだ。そこでは個々のフリーター自身もつねに「自転」(revolution-革命)を強いられる「子渦」となり、諸個人の「能力」によっては中心へと引きずり込まれたり、あるいは外周へ斥けられたりする。そして諸個人の「能力」によるこの規定自体が、偶然的である。《本音を言えば、ぼくは人の環境や生れどころか、能力や努力さえも単なる外的文脈や偶然に左右され致命的に決定されてしまうと確信する。この世はそれほど複雑で容赦なく、底抜けにおそろしいと。》(『フリーターにとって「自由」とは何か』、「はじめに」)そのような諸個人の偶然的なrevolution-革命の集合体が巨大な《渦》convolutionを形成する。
 菅原正樹氏は、フリーター層内部での諸個人の差異についてこう書いている。
 と同時に、27歳の頃の佐川急便の夜勤務や、28歳からこれまでの38歳までを東京の植木職人として日々社会勤務してきている者としては、「フリーター」という一様な階層把握の中にも、実は様々ななのか、いくつかなのか、としても多数の集団(階級)的行動様式が養育的に世襲されてきているのではないか、という観察もある。おおまかに「勝ち組」と「負け組」として大別されてきている現在の経済的カテゴリーではあっても、実は高度成長の過程で「中流」という形容理解の下で隠蔽されてきた、すでに受け継がれてきていた社会的階級の問題が、今になって反復再現されてきているのが一般的なのではないか、という思いである。(「ひきこもりからフリーターということ」)
 この「隠蔽されてきた、すでに受け継がれてきた社会階級の問題」こそが、実際的には諸個人の能力の偶然的な差異としてあらわれるだろう。さらに、たんに能力一般というよりは、各々がそれ自体一つの《渦》としての諸個人が、何を採り入れ、何を斥けるかを決定する能力、すなわち、諸々の能力を学び取ることに関わる「能力」、言い換えれば「判断力」の差異としてあらわれるだろう。
 杉田氏は、玄田有史の「仕事格差」論を参照してこう書いている。
 OJT(On the Job Training=職場内教育)やスキル教育のチャンスから切り離されて雑務や単純労働に延々と忙殺される人々は、仕事の最低限の「手応え」を感じ取れない。少なくとも感じ取れないことが多い。成長の感覚も稀薄になる。そのことが日々、曖昧だがリアルな不安を内側に蓄積し、鬱血させる。労働意欲や最低限の自信や肯定感を凍えたみたいに縮減させていく。(『フリーターにとって「自由」とは何か』「仕事格差が存在する!」)
 「仕事格差」の存在は、確かにリアルである。それはマクロ的には職業差別の再版として既に明瞭に現れている。にもかかわらずここで指摘すべきことは、諸個人が「日々、曖昧だがリアルな不安を内側に蓄積し、鬱血させる」ことが、どのように、どの程度に可能であるかどうかすら、ミクロな個人の「学ぶ能力」、言い換えれば、判断力に関わるという現実であり、それこそがアクチュアルな問題である。真のフリーター運動は、この「学ぶ能力(判断力)」格差を無視したところでは存在することができない。なぜなら、こうした「学ぶ能力(判断力)」格差」があからさまになってきたこと自体が、フリーターという《渦》出現の結果であるからだ。
 柄谷行人はかつて『探求』で「教えること」における「命懸けの飛躍」を論じたが、私はそれを最初に読んだときから、「学ぶこと」にも「命懸けの飛躍」があるのではないか、と感じてきた。橋本治は、「フリーター議員」をめぐって、この「学ぶこと」の飛躍について書いている。
 杉村太蔵ということになると、「なんにも知らないどうしようもないやつ」と、等身大であるがゆえに親しみが持てる」の両極端だが、「ああいう形の知性も存在しうる」ということを 私は知っているので、大方とは違う考え方をする。
 日本人にとって、「知らないこと」は、普通「びっくりすること」ではない。「恥ずかしいこと」なのだ。だから、「自分に関係あるかどうか」をさて置いて、とりあえず「我が身に引き入れよう」と考える。ところが、「知らない=びっくりする」派は、そもまず、「関係ないから知らなかった」を前提とするから、「そんなこと言われたって、どう受け入れりゃいいのかは分からない」になる。だから、「身にしみない」である。身にしみないくせに、「はい、はい」の協調性だけはあるから、「この我が身に関係ない事実を受け入れるには、どうすればよいのか?」と考えざるをえなくなる----そこが「非常識なる知性」が誕生する原点なのである。(「ああでもなくこうでもなく」第98回、『広告批評』2005年11月号)
 「非常識なる知性」においてのみ、「子渦」が「親渦」以上の力で「親渦」を呑み込むことがありえる。「非常識なる知性」とは、私は自分が無知であることを知っている、というソクラテスのイロニーとは異なり----イロニーではせいぜい親渦の中を生き延びることができるだけなのだ----、知らなかった何かを知った瞬間における驚きを、いつまでも憶えていられる知性である。他者から何かを学びながら、決して他者を師とはせずに、その他者を偶然に任せて運んでしまうハリケーンである。そんな力は誰もが平等に持つことはできるものではない。しかしこの力を否定することはrevolutionの力を否定することになる。
 例えば、攝津正氏が最近、柄谷行人氏のそうした力(権威)に従ったことに関するNAM会員(主に代表団や評議会員)の責任、などといっている。しかし、人が従わない権威とは、引力(重力)のない物体と同じで、この世界には存在しえない語義矛盾である。したがって、「権威に従う」こと自体についての従った者の責任などありえない。まただからこそ、「権威に従った」かどうかで「行動の意味」を判断しようとする攝津氏は、責任を問いながら、自らの「責任」(自らが何ものかに対して権威=authority=著者性を持つこと)を負うことができない。
 サイバースペースに渦巻くフリーター(偶然性)の声は、巷に溢れるフリーターについてのauthorityを乗り越え、フリーター自身の「重力」としてのauthorityによって運動する星雲である。前者のauthorityが「教える立場」からのもので、ちょうど教師が同じ内容を何度でも反復してよい、というような「権利」だとすれば、「学ぶ立場」からのものである後者のauthorityは、先行者の(あるいは過去の自らの)失敗を反復しなくてよいという「権利」である。この星雲が生成する恒星は、著作物性の概念をも更新する使命を持つだろう。

鈴木健太郎
SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送