連続講座I「最もミステリーで最も不可解な法律=憲法」

 2004年度連続講座Iは、弁護士の柳原敏夫さんを講師に招いて、2005年1月21日に、いさご会館で開講しました。受講者は組合員39人でした。抽象的でとらえどころのない憲法は「最もミステリーで最も不可解な法律」であり、他の法律とは異質で、一見無力で非現実なものに見えます。柳原さんは、憲法の正体は、個人の尊厳を現実のものとしていくために無数の無名の市民の「良心」が創造したものであり、憲法の未来を決定するのは市民ひとりひとりの覚悟にある、と話しました。

なぜ憲法講座の一番手が私なのか。

 日本には、憲法違反を真正面から争う、いわゆる憲法訴訟を手がけている弁護士が沢山います。それに対し、私は今まで一遍も憲法訴訟をやったことがない、著作権紛争を専門にしているただの弁護士です。何故、今回の憲法の講座の一番手に私のような者が指名されたのか?これが最初のミステリーです。
 思うに、ネットを探索して私を指名した主宰者が、おそらく私が変な問いを発して、自問自答しているのが(気に入ったかどうかは分かりませんが)気になったからではないかと思います。その問いとは――「憲法を知る」とはどういうことなのか?「暮しの中にある憲法」とはどういうことなのか?暮しの中にある憲法を見たことがある人が本当にいるのだろうか?暮しの中にある憲法を手で触ったことがある人が本当にいるのだろうか?といったことです。
 確かに、憲法は六法全書などの紙に書いてあります。だったら、紙を燃やせば憲法も灰になって消えてしまうものなのか。それでもなお引き続き存在するというのなら、それは一体どんなふうに存在するものなのか?その存在を見たことがある人はその正体を教えて欲しい――私がこうした問いをクソ真面目にしていたことに主宰者は気になったのだと思います。
 実は、私は憲法を見たことがあるのです。たとえばミヒャエル・エンデの「モモ」の主人公のモモの中に、或いは「はてしない物語」の主人公バスチアンの中に、ちばてつやの「おれは鉄兵」の主人公鉄兵の中に、或いは楳図かずおの「まことちゃん」の主人公まことちゃんの中にです。映画では、「ブリキの太鼓」の主人公オスカルの中にです。彼らに共通するのは、どういう事態になろうと「覚悟の決まった」徹底した自己本位性といったものに貫かれているということです。もっと言えば、あくまでも己の欲するままに生きる、ということです。尤も、彼らは真の子供のため、この教えは自分のみならず万人が共有すべき普遍的な真理であることを本能的に了解しています。だから、決してヒットラーのようにはならない。こういう主人公を見ていると、「あっ、憲法が歩いている」と思います。
 では、どういう意味で「憲法が歩いている」のでしょうか。そのことを今日の講座で喋りたいと思います。
 そのためには、そもそも憲法自体がとてもミステリーで、とても不思議な法律であることを理解しておく必要があります。

1. 憲法はなぜミステリーなのか

 憲法が相手にしている対象は何よりもまず国家です。なぜなら、そもそも憲法とは「国家が法律の名のもとに市民の人権を侵害しないように国家に命じた法律」だからです。
 もっとも、一見すると、憲法もまた他の法律と同様に、あたかも国家が制定したものであるかのように書いてありますが、しかし、本質はちがいます。憲法の本質は、国家が制定したもろもろの法律、とりわけに法律の名のもとに制定された市民の人権を侵害するような法律に対してこれはおかしいとケンカを吹っかけることを使命とする規範です。つまり、国家によって市民の人権が侵害されることを防止するための法律が憲法です。だから、当の加害者である国家の手でそのような憲法が制定されるはずはありません。
 では、このような規範はいったい誰の手によって制定されたものでしょうか?
 また、憲法が国家が制定したもろもろの法律にケンカを吹っかけるとしても、憲法から違反者として非難された国家が同時に憲法違反を取り締まる役目を果たせるはずがありません。では、このような憲法違反は一体誰の手によって正されるものなのでしょうか?――これはミステリーです。

2. 憲法はなぜ不可解なのか

 法律家にとって、憲法ほど日常の中で縁が薄いものはありません。憲法の条文は高度に抽象的な言い方で定められていることが多く、日常の実際のトラブルはもっと具体的な規則を定めた法律の適用によって解決されるからです。日常生活の中で、憲法は、お経の文句に例えられるように、国会や最高裁判所という一部の人間だけが話題にする、雲の上の仏壇の飾り物みたいに見えます。では、そういう一見無用の長物のような憲法が、法律家、市民にとってどのような意味があるのだろうか?

 以上の指摘からも、憲法とは最も無力な最も非現実的なものに見えます。では、このように一見最も無力で最も非現実的なものが、なぜやすやすと消滅せずに200年以上も存続できたのだろうか。これもまたミステリーです。
 ――そういう憲法のミステリーを考えるときのひとつの切り口は憲法の起源です。

3. 憲法の起源

(1)世界最初の憲法について――1776年6月 バージニア憲法をはじめとするアメリカ諸州の憲法――

 今から230年前ぐらいにアメリカの独立戦争のさなかに制定されたバージニア州のバージニア憲法が世界最初の近代憲法です。この後、矢継ぎ早にアメリカの各州で憲法がつくられました。その中に以下のような条文があります。
 第1条「すべて人は生来ひとしく自由かつ独立しており、一定の生来の権利を有する。これらの権利は、人民が社会を組織するにあたり、いかなる契約によっても、その子孫からこれを奪うことのできないものである。かかる権利とは、すなわち財産を取得所有し、幸福と安全とを追求獲得する手段を伴って、生命と自由を享受する権利である。」
 これが決して奪われることのない人権というものを宣言したものです。同時にそれを奪う国家に対して、これを奪うことはならぬと警告をしています。
 第2条「政府は人民、国家または社会の利益、保護および安全のために樹立される。いかなる政府も、これらの目的に反するか、または不十分であると認められた場合には、社会の多数の者は、その政府を改良し、変改し、または廃止する権利、いわゆる革命権を有する。この権利は、疑う余地のない、人に譲ることのできない、また棄てることもできないものである。」
 人権とはそういう根本的なものであると宣言しています。各論でもろもろの人権を具体的に書いてあるのですけれども、ちなみに12条は表現の自由です。「言論出版の自由は自由の有力なとりでの1つであって、これを制限するものは専制的政府といわなければならない。」と。
 簡単に言うと、この頃のアメリカは今のアメリカと正反対で、難民がヨーロッパから渡って創った国ですから、しかも当時は蒸気船もなく帆というか風だけを使って大西洋を何ヶ月もかけて渡ってきたわけですから、一時期のヴェトナムの難民の方たちが東シナ海を漂流したテレビの映像のイメージですね。誰がみても命がけで逃げてきた人たちが迫害を二度と繰り返すまいと誓った、その想いがひしひしと表現されています。まさしく、憲法の原点であるということが伝わってくるような文章です。

(2)では、こうした近代憲法はどこからどうやって見出されたのか?

 ではどこから見つけ出したのか。その近代憲法の最初の源泉は、1215年のイギリスの「マグナ・カルタ」とされます。では、もともとイギリス国王の横暴に不満をもった貴族たちが封建的支配権を認めさせた確認文書です。では、どうしてこれが近代憲法の源泉になり得たのでしょうか?歴史的な事実なのでそうであるとしか言えないのですが、不思議なことに「マグナ・カルタ」は歴史上、長らく忘れられていたのです。ところが、17世紀ごろに急に思い出されたらしいのです。イギリスの市民階級が力をつけてきて国王の権力に対して自分たちの権利を主張するようになって、絶対主義の国王と市民階級の議会との対立が激化する中で、市民たちが自分たちの権利を主張する根拠として「マグナ・カルタ」が新たに見出され、「だから、国王の横暴はおかしい」と言われるようになったそうです。つまり、これを使えば国王は文句を言わなくなると、市民たちの手によって絶対主義の前に市民の自由を守る文書として再び発見(むしろ発明)されるに至ったのです。 以下は当時の歴史家の言葉です。
 ――「マグナ・カルタ」の偉大さは、それが1215年の作者たちにとって何であったか、に存するのではなくて、それが後に、後世の(500年後の)その当時の政治的指導者、裁判官や法律家、およびイギリスの全市民にとって何になったかに存するのです。
 つまり、この文書が自分たちの人権を擁護する砦になるので意味を持ったのです。これはとても貴重な話でして、その最も有名な例が、戦争放棄・永久平和主義の憲法9条です。憲法9条をけなす人たちは、「これはアメリカから押し付けられた憲法で自主憲法ではないからけしからん」と言います。しかし、憲法9条がどういう経緯でつくられたのかは実はどうでもいいことなのです。「マグナ・カルタ」の経験からも明らかな通り、現在の21世紀においてこの憲法がどれだけ今日的な価値や意味があるかが大事なのです。

 もうひとつの良い例は、カントの「永久平和論」です。憲法9条は、国際連合による安全保障、遠い将来における世界連邦(世界共和国)の存在を前提とした人権規定であるが、それは18世紀のカントの「永久平和論」という小冊子の中に見いだされました。しかし、この文献は100年以上も忘れ去られていたのです。ところが、第一次大戦という惨禍の経験を通じて、当時の政治的指導者、裁判官や法律家および世界の全市民により再び見出されるに至ったのです。そして、それが国際連盟として姿を現したのです。しかもカントは第一次世界大戦で負けた国ドイツの哲学者です。驚くことに、この敗戦国の学者の文書を使って国際連盟ができたのです。尤も、この国際連盟はその後無力化していって第二次大戦の勃発を阻止できなかったのですが、その後にその大戦の惨禍の経験を通じて、再びカントの「永久平和論」が世界の全市民により彼らの理念を表現する文書として見出され、国際連盟の反省を踏まえてより強固な形で国際連合や憲法9条として姿を現したのです。これが近代憲法の歴史です。この歴史の教えが、現在の日本においてもあてはまると思います。

(3) では、そのような近代憲法をつくり出したのは誰か。

 アメリカが最初に憲法をつくったのは州のレベルです。その後、アメリカ合衆国憲法を創ろうとしたときに、おもしろいことにこれに反対する声があったのです。というのは、それは憲法の精神を反映した声だったのです。なぜなら、憲法はもともと国家が市民の人権を侵害することを封じ込めるために創ったのだから、州が創ったもので十分だというのです。これを今風にイメージすれば川崎市、県レベルのことです。その住民たちが憲法を創ったわけです。その意味で、実は、複数の無名の市民たちが実際に近代憲法を創り出した母体だったと思います。そのことが別に観念的なことではなくてまさに実際にそうだったのです。

(4) では、憲法違反はいったい誰の手によって正されるのか?

 近代憲法を創り出したのが無数の無名の市民たちだとすれば、その違反を正すのもまた無数の無名の市民たち以外にあり得ないのです。これに対し、近代憲法を守る番人は裁判所であり、司法機関を通じて憲法違反をただすべきである、という考え方がありますが、これは決して近代憲法の普遍的な考えではありません。なぜなら、近代憲法は、市民の人権保障にとって、国家機関が違反するかまたは不十分であると認められた場合には、政府を改良し、変改し、または廃止する市民に固有の権利があるとしており、現在の国家制度の普遍性を認めているわけではないからです。
 憲法の原点は、人権侵害に対する異議申立である近代憲法を作り出した市民自身こそ、近代憲法を維持し、憲法違反を正すべき主役であり、その原点に立った上で、個々の具体的な状況の中で、最も有効な生きた是正の制度を探求し、具体化するシステムをつくっていく必要があるということです。
 例えば、先ごろクルド人の難民の人が捕まって本国に送還されましたが、わが国の難民認定に関する不服申立制度は、認定を審査する入国管理局がそのまま担当しています。人権保障から見たとき、制度として茶番でしかないことは明白です。しかし、出入国管理政策懇談会の難民認定制度に関する最終報告では、新たな第三者機関の設置に消極的な理由を「行政改革の趣旨:国の行政組織等の減量、効率化等に関する基本的計画の趣旨に照らせば、新たに過大な組織を設置することには慎重な配慮が望まれる。」としています。ここには、近代憲法を守る番人は国家であるという固定観念に染まっています。近代憲法の原点である市民自身こそ憲法違反を正すべき主役であり、「理性を公的に使用する」ことができる最もパブリックな市民組織を見出し、立ち上げていくことの必要性があると思います。

(5)近代憲法を創造する原動力はどこにあるのか。

 憲法は、当然のことながら、加害者の立場に絶えず立つ立場にある国家に対しては、憲法を守るように厳格に義務付けています(99条)。反面、市民に対しては「個人として尊重される」と保障していますが、それを義務づけてはいません。憲法は目に見えないものだし手にとって触ることもできないものです。抗議する、抵抗する、反抗することを通じて憲法が初めて実現されるものであるとすれば、そういうことをしなかったら憲法は有名無実化するということです。だから、憲法は上からそっと市民を見守っている感じなのですね。ある意味では市民に対する信頼に基づいているということでして、市民が目覚め、行動することをどこかで見守り期待している、そういうふうに見えるのです。 では、憲法は、市民自身が近代憲法を有名無実化しないで、否、むしろ創造していく力(=源泉)というものをどこに見出しているのでしょうか。この点について、近代憲法自身は何も語っていません。
 そうだとしたら、これまでやってきたように、我々もまた、過去の歴史の中にそれを再発見するしかありません。そして、それが再発見されるかどうかは、ひとえに、それを支持する無名の無数の市民の手にかかっているのです。この点で、私が関心を持つひとつの考え方というのは――近代憲法の理念を創造する原動力とは、人間の理性でも道徳的意欲でもなく、むしろ、一見それとは正反対の、カントがいう「人間性の自然的素質である非社交的社交性=敵対性=攻撃性」なのではないかという考え方です。ただし、注意したいことは、この非社交的社交性=敵対性=攻撃性が、そのまま近代憲法の理念を創造する原動力になるわけではなく、そのままではかえって近代憲法の理念を破壊する方向に作用するということです。しかし、もし、この非社交的社交性=敵対性=攻撃性が「無知の涙」を流し、「罪悪感」として悩み、各自の心のうちに内面化されたとしたら、そのとき初めてこれは「良心」として近代憲法の理念を創造する原動力となり得ると考えるのです。
 このような考え方は、例えば、スピルバークの映画「シンドラーのリスト」の主人公シンドラーの生き方に当てはまるものです。日本でいえば、映画「ゆきゆきて神軍」の主人公奥崎健三にそれは見出されるのではないでしょうか。また連続殺人事件の永山則夫の「無知の涙」にもそれがあります。つまり、ある種の暴力的で攻撃的な行為は単に否定されるべきものではなくて、それを突き詰めていって乗り越えていくことによって新しい価値を創り出していくことができ、それが実は最も重要な道筋ではないかということです。私自身も、もっか、近代憲法を創り出していく細くて困難だが、しかし唯一の希望をそこに見出しています。

(6)今、近代憲法を創造する原動力はどのように見出せるのだろうか。

 以上の話は一般論ですが、しかし、そういう抽象的な話はなんかよく分からないし、第一、詰まらないものです。それで、今の話をもっと生の生きた形で何とか展開できないものか、そのあと考えていました。それで、はたと思い当たった事例があったのです――それが、ごく最近始まったテレビドラマ「タイガー&ドラゴン」です。(もともとここ10年以上、テレビドラマはクソみたいに面白くなくて、全然観ていませんが)こいつは近年稀に見る破天荒に面白いドラマです。で、瞬間、この面白さこそ、近代憲法を創造する原動力なのではないかと思ったのです。或いはかなり古い映画ですが、アラン・ドロンが貧しい青年を演じた「太陽がいっぱい」も似ていると気がつきました。或いは、黒澤明の「影武者」に登場する織田信長にもそれを感じました。かれらに共通するのは何かというと、一種の悪です。「タイガー&ドラゴン」の主人公のチンピラ、「太陽がいっぱい」の金持ちの友人を殺害する貧しい青年、敵に対しては、武士のみならず僧侶も農民にも情け容赦なく殺戮をためらわない信長。
 こうした悪に、なぜ、近代憲法を創造する原動力を感じるのか、というと、決して悪そのものにそのような原動力を感じる訳ではありません。しかし、ここに登場する悪には、普通、世間でいう「悪いことはしてはいけません」の道徳では済まされないもっと別の何かが含まれている。でなければ、これほどまでに、こうしたドラマや映画が面白いわけがないからです。
 それを私は、一種の主体性だと思います。なぜ、それがここにあると見えるのか、というと、それは彼らが悪を実行するためには、世間のレールの上をただ言われた通りに行儀よく走るだけでは不可能であって、少なくとも、或る種の主体性を持った決断と実行とが要求されるからです。そして、そうした彼らのズカズカした行動ぶりは、とりわけ、巨大企業や巨大労組といった組織の中にいて単なる機械の歯車の役割を強いられている存在に落しめられたような現代人にとっては、新鮮な筈です。だから、面白いと思う。

 この新鮮さが「近代憲法を創造する原動力」の出発点になるではないか。
 しかし、この新鮮さは、このままでは「近代憲法を創造する原動力」の出発点になったとしても、それ以上、この原動力を維持・発展させることはできないだろう。それは、所詮、悪の中にとどまり、「太陽がいっぱい」のように完全犯罪を見破られ、また、信長のように、家来に裏切られて結末を迎えることになるからです。
 では、それが、「近代憲法を創造する原動力」として最後まできっちり機能するにはどうしたらいいのか――そのためには、我々が新鮮さを感じる「主体性あふれる生き方」をもたらした「悪」と徹底的に対決しなければならないのではないか。それを実際にやってみせた日本の貴重な実例が映画「ゆきゆきて神軍」の主人公奥崎健三だと思います。第二次大戦で悲惨な戦争体験をした彼は、その悲惨さを忘れるかのように、戦後、一転してタガがはずれたように、不動産業者として商売にのめり込む。いわば主体性をきっちり発揮してバリバリ生きたわけですが、しかし、その金儲けに熱中する中で、人を殺めるようなことをしでかす。そして、獄中で、彼は「無知の涙」を流し、転向するわけです――自分が体験した戦争中の悲惨な悪の体験(人肉事件)から目をそらして、いくら自由に主体的に生きれると思っても遂にはそれが不可能なこと、にもかかわらずそれが可能であるかのように幻想を抱いたため、とうとう人を殺めることまでしてしまったこと、むしろ、自分の主体的な生き方は、自分が体験せざるを得なかった戦争での「悪」の体験と真正面から向き合い、これと対決する中にしかないと回心するに至るのです。戦争の「悪」に向かい合おうとしない昭和天皇及びその制度に対する彼の情け容赦ない批判はここから生まれます。
 ただし、私がここで言っている「悪」というのは、別に、人を殺めるとか物を盗むといった犯罪のことを言っているのではありません。むしろ、親子や夫婦・恋人といったごく普通の人間関係の中に日常的に登場する「悪」のこと、カントの言い方を使えば、「相手を手段としてのみならず、同時に目的(=人格)として扱う」ことができない振る舞いのことを言います。
 だから、夫婦や恋人の経験のある人なら誰でも一度は自分の中にあるこうした「悪」=身勝手さのことは身に覚えはあると思います。しかし、同時に、恋愛というのは、まさに己の主体性を最も発揮せずにおれない最高にピッカピッカの行為です。そして、そのピッカピッカの行為と裏腹に自分でも手がつけられないどうしようもない身勝手さ=「悪」が同居するのです。だから、この問題に誰もが直面するのです。そのとき、「近代憲法を創造する原動力」を持ち続けられるかどうかは、このときの対決にかかっているのです。これが、今、述べた「タイガー&ドラゴン」にまつわる話の結末です。
 近代憲法の至上命題は個人の尊厳=個人を尊重せよ、ですが、そして、それは何よりも第一に、権力を持った国家に向けられたものですが、しかし、さっきも言いましたように、近代憲法を担保する最終的なものは、我々市民自身の手に委ねられています。ところが、それを託された我々は神ではなく、動物から進化した生き物、ピッカピッカの恋愛とどうしようもない身勝手さが同居するような、善と共に悪も同居する生き物です。そうした生身の生き物が近代憲法の理念を担保していくしかないのだという現実を認識する以上、そこから導かれる結論は――あんたもまた、「タイガー&ドラゴン」が提出している問題と対決するしかないということです。




実例:「シンドラーのリスト」の主人公シンドラーの変転/「ゆきゆきて神軍」の主人公奥崎健三の変転/新宿連続殺人事件の永山則夫の「無知の涙」/戦後、憲法9条を存続させた「何ものか」
?参考文献:柄谷行人「カントとフロイト――トランスクリティークII」『文學界』2004年1月号、楳図かずおVS岡崎乾二郎「世界が終わったとき、子どもがはじまる」『ユリイカ』2004年7月号


柳原敏夫
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