地域通貨論(2003) 一、理論的現状認識について

"in the end,the love you take is equal to the love you make."

"the beatles"

 筆者の見解では、現在、国民通貨の運営が急務である一部の地域(通貨危機に陥った東南アジアなどがその典型)をのぞいて全世界的に地域通貨へのブームとその収束にともなう幻滅(過剰な期待の反動)が広がっており、地域通貨に携わった人間たちの地域通貨批判がそれにさらなるバイアスを掛けている。
 これはグローバリゼーションがもたらした均質化の被告人を、地域通貨という小さなコミュニティー(しかも再構築中のそれ)に摺り替えているという点で、二重の間違いを犯していると言わざるを得ない。こうした感情的反発を論理的に整理するために、この論は書かれたものである。
 まず、地域通貨とその中のひとつである「地域交換取引制度」、LETS(Local Exchange Trading System)について具体像を論じる前に、その理論的基盤(プルードンのアソシエーショニズム)について書いておきたい。もし地域通貨について具体的に知りたいのであれば二章から、協同組合の中でのLETSの位置付けに関心があるなら三章を読んでいただきたい。

一、理論的現状認識について

A、コミュニズムと、その分節化としての「穏やかなアナーキズム」


 マルクスはその資本制の分析を商品からはじめたが、地域通貨についてはその分析を人間から始めなければならない。まず何よりも、地域通貨は人間と人間との間の、横のつながりを可能にするシステムである。そして地域通貨にとっては、次のような社会が理想である、と言える。

共産社会では、各人はそれだけに固定されたどんな活動範囲をももたず、どこでも好きな部門で、自分の腕をみがくことができるのであって、社会が生産全体を統制しているのである。だからこそ、私はしたいと思うままに、今日はこれ、明日はあれをし、朝に狩猟を、昼に魚取りを、夕べに家畜の世話をし、夕食後に批判をすることが可能になり、しかもけっして、猟師、漁夫、牧夫、批判家にならなくともよいのである。(マルクス『ドイツイデオロギー』。柄谷行人『トランスクリティーク』批評空間社、p423より再引用。『トランスクリティーク』に関しては以降TCと表記する)

 この文章(未来への具体的イメージを書いたものとして貴重)を書いたマルクス及びエンゲルスによって、手厳しく批判されたプルードンは、その交換銀行と人民銀行の計画によって、ゲゼルの賞賛を得て、地域通貨に理論的な基盤を与えた。
 ただ、プルードンについては、主著である『貧困の哲学』さえ日本語で翻訳されていない状態であり、マルクスの文章だけを読んで判断するのは危険である。
 プルードンの交換銀行は、労働価値説ではないし、またそのあとに提案された人民銀行も基本的には無償信用による信用組合であった。これらは政府の弾圧でうまくいかなかったにしても、再検討されるべき事象である。(『自由経済研究』vol.11,12参照)
 交換銀行に関しては、物々交換を組織しようとしたと考えていいが、これは個々の交換を促進させるものである。またこうした物々交換の組織化はLETSの原形と言えるし、ゲゼルはここから減価式のアイデアを得た。(ゲゼルの減価式のコンセプトを簡単に説明するなら、「商品はすり減り、お金だけがすり減らないから、お金だけが強く、お金が中心の世界になってゆく。だからお金が減ってゆくものにすれば、溜めても利益がなく、交換も促進される」というものになるだろう。なお、ゲゼルは土地国有化の支持者であり、また、土地の所有により生まれる賃料が「母親の子供の養育費として子供の数に比例して母親たちの間で配分される」ことを望んだという点で、いわゆるケインジアンの理解をこえる存在である。ただし、ゲゼルとその再評価をするエンデには、マルクス主義イコール国家社会主義という誤解があり、これについてはマルクスのテキストを実践的に読み解いていかなければならない課題があろう。生井論文参照)。
 マルクスの分析は、工業製品の生産には合致するが、時代はいよいよ、その思考が系列に横滑りし、決して体系づけられない、あらゆるレベルにアンチノミーを見いだしたプルードンのアプローチを必要としているように思える(TC,p418の現状認識を参照)。
 「カジノのお金」(投機目的の市場経済)をマルクスは構造的に分析し、「パン屋のお金」(日常の生活必需品の交換)をプルードンは作ろうとした。どちらの認識も必要不可欠であり、それらの認識は二律背反ではない。プルードンの相互主義は非対称を前提としているし、交 換の正義を求めたものだ(キャッチボールのときはちゃんと胸に投げろ、というようなものだ)。マルクスは配分の正義を求めた思想である(これは野球の真剣勝負の分析にあたるだろう。キャッチボールと野球の試合とは、言うまでもなく二律背反ではない)。マルクスの構造主義とプルードンの相互主義は、それぞれ認識と実践とにおいて使い分けが可能である。また、『所有とは何か?』(プルードンの書名)に対する解答として、「所有とは略奪である」というプルードンの冒頭の言葉が有名だが、「所有とは不可能である」というのがこの書の最終部におけるプルードンの答えだった。さらにプルードンは、「所有は労働者に生産物を彼が払えないような高価で売りつける。したがって所有は不可能である」と述べており、これはマルクスの『資本論』の要約足り得る言葉である。
 「革命」という言葉に関して言えば、こうした「暴力的な富の再分配(=革命)」は不可避 的に起こらざるを得ないのであって(今回のイラク戦争もその一つ)、それをどのようにしてソフトランディングさせるかがプルードンの課題だった。その意味で、プルードンの考え方は、「コミュニズムは極端なものではない、極端なものを強いるのは資本主義の方だ」、と いうベンヤミンが伝えたブレヒトの考え方に近いかも知れない。
 さらに脱線すると、もしプルードンとマルクスが思想的なLETS通帳を記載していたなら、多少マルクスの方にマイナスが残っているだろう(初期マルクスはプルードンを高く評価してい たが、インターナショナルの通信員の依頼を断られて以降、プルードンへの態度を一変させた。また『資本論』にも多々プルードンからの剽窃があると言われている。かつて、マルクスがヘーゲルを転倒させたように、今後はプルードンによってマルクスを転倒させなければならないだろう)。ただし、ドイツ思想とフランス思想の全体の収支の中ではプラスマイナスゼロに なっているも知れない(ちなみにベンヤミンはこうした状況に意識的であった)。
 プルードンの思想を要約するなら、次のようなものになる。

 何よりも交換における正義が優先されるということ(そこに法、契約の存在 意義がある)
 政治革命に社会革命が先立つということ
 アンチノミー(交換)に対する上位観念はないということ

 こうしたプルードンの相互主義(実践的可能性はそこにしかない)はマルクスの構造主義 的認識(そこから我々は安易に逃れることはできない)と「積極的」に「補完」しあう。
 ここでは、プルードンが人民の生産そのものを組織しようとした農工連合の試みについては書かないが、「連合」(プルードンにはアソシエーション批判があり、彼は経済的実質を伴っ た契約を個々に行なうフェデレーションと言う語を選択している)が、先にプルードンの思想の要旨としてあげた原則によって可能であることは明らかだ。
 さらに、その相互主義の神髄は、プルードンによれば以下のようになる。

 汝の欲するところを他人にもなせ。この戒律(相互性)は政治経済学では次 の有名な定式に翻訳される。生産物は生産物と交換される。

B、LETSの基本原理

 さらにプルードンにはこんな言葉がある。

 政治機能は産業機能に還元される、社会秩序はたんに交換という事実にのみ由来する。(「連合の原理」TC,p260)

 これを図に書くと次のようなものになるだろう。

   n 
    ↑
人--------人
   --------

 そして、ようやく本題に入るが、この逆〒字状の図がLETSの基本原理でもある(1対1の 交換がn個の他者に開かれるということである。なお、逆T字状でもいいが、1対1の関係は決 してnに還元されないで一本の1対1の線が残るのだ。なおよく地域通貨の説明で使われる三角 形の図は、原理図というより運営図である)。 LETSは物々交換を交通整理するシステムである が、その交通整理自体が生産的であるし、生産主体の持続的な存続と育成を準備するものであ る、ということだ。
 さらに素朴な疑問を言えば、国民通貨がなければ交換ができない、というのはどう考えても不自由である。こうした一見子供じみた思考は、啓蒙という一人二役(愚者と賢者、あるいは 世界市民と共同体内存在的思考)が必要とされる試みの中では重要度を増しているものである。
 マルクスの図式を使うなら、 一つの権力が多数の横の関係を分断したまま支配する(『資本 論』でいえば形態3)なのではなく それらがランダムに横につながる(形態1)への遡行と考えればいい。
 もちろん、これらは系譜学的な思考によって遡行されるのであって、ロマン主義的な退行としてではない。 それをもっとうまく説明したセミラティス構造(冒頭のマルクスの文章もこれ にあたる)については、柄谷行人のTC,p447および『内省と遡行』(講談社学術文庫)で触れられている。また、冒頭に述べたように、人間が中心になるとは言え、人間と人間が無媒介に連携する共同体を前提にしているわけではない。そして、その連携のためには生産における中間技術(適正技術)の発達が欠かせないということを注記しておきたい。(ちなみにLETSにおける売り買いの目録がセミラティス構造を自己生成させる様相は、プラスマイナスを個々がワンセットづつ持つ磁力の様相に譬えられるだろう)。
 そして、これらの考え方は、どちらかと言えば、コミュニズムと言うよりはアナーキズム である。
 たとえば、エクアドルのLETSは、50人までの限定で、同システムで異名のLETSが何十と作られている(一つが取り締まりを受けても、他は生き延びる)。
 だから、一つの地域通貨が、広がらないからと言って失望する必要はないのである。そも そも自給自足が理想なのだから、取り引きする相手は少なくていいし、そのノウハウを交換すればいいのである。
 そして、小さなモデルが複数存在した方が、地域通貨はセーフティーネットたりうる(シ ントラルに関しては辻信一氏の研究がある。ちなみに氏の提唱するスローは、資本/国家/ネーションという三つの交換形態の内の、資本に対抗する原理である。またシューマッハの提唱したスモールは、国家に対抗している。ただし、スローという言葉の流行は、現在、地方 自治のネーションの創成に使われているようだ。また、LETSは交換における三つの形態の内のネーションの内在的分節化である)。
 こうしたあり方は、自律分散型で、自主管理を呼び掛けるという意味で、中心の沢山ある思考であり、「規律のあるカオス」(ヨハン・ クライフのトータルフットボールへの形容として使われた言葉、また「セミラティス構造」のいきた手本でもある)という言葉で捉えることができる。
 マイケル・リントンにしても「賢いアナーキスト」を自認しており、思想的基盤がアナーキズムにあるのは明らかだ(穏やかなそれ)。プルードンはアナーキズムを自主管理(self-goverment)という言葉で置き換えていた。
 極端なことを言えば、日本語がマイナー言語であるように、円もまた(東京に中心を持つ)単なる一交換システムであり、し たがって地域通貨である。つまり普遍的ではない。(近代以前の日本には「結」など、地域通貨の原形があったが、左翼の歴史段階説は近代以前の可能性を否定する傾向がある。後述)。
 ただ、円は国家という税金と利子を吸い上げるシステムが強固なだけであるし、みなその自閉した共同体の中で麻痺しているだけだ。そしてマルクスはそれらを正確に分析しただけである。未来を指し示す積極的な言葉としては冒頭に引用した文章TC,p422があるが、これも実は地域生命体系への感性が不十分である。本来なら、フリーライダーを容認するのではなく、老子の小国寡民で表現されたような循環型の社会(あるいはこのようなモデルがそのノウハウを交 換しながら複数ある姿)を思い描くべきだろう。
 ちなみにこの『道徳経』は、中国の歴史を通じて、民衆側にとって、支配階級に使用された孔子の思想に対抗するための、アナーキズムの根拠とされてきたものである。、またこの思想が、戦国時代の「交通」の中で生まれて来たものであることは言うまでもない。

 小国寡民、什伯の器有りて用いざらしめ、民をして死を重んじて遠く徒(うつ)らざらしむ。
 舟輿(しゅうよ)有りと雖(いえど)も、之に乗る所無く、甲兵有りと雖も、之を陳(つら)ぬる所無し。
 人をして復(ま)た縄を結びて之を用い、其の食を甘(うま)しとし、其の服を美とし、其の居に甘んじ、其の俗を楽しましむ。
 隣国、相い望み、鶏犬の声、相い聞こえて、民、老死に至るまで、相い往来せず。

 小國寡民。使有什伯之器而不用。使民重死而不遠徒。
 雖有舟輿。無所乘之。雖有甲兵。無所陳之。
 使人復結繩而用之。甘其食。美其服。安其居。樂其俗。
 鄰國相望。鷄犬之聲相聞。民至老死。不相往來。

(老子『道徳経』第八十章)

 繰り返しになるが、これらの思考は系譜学的に遡ることで再発見されねばならないし、カ ウンターカルチャーを排出し続ける分母になり得ているという意味で、ロマン主義的なものではない(音韻学的に言っても、韻文は構造主義の臨界点を指し示すものである。なお民衆の抵抗に関して述べるならば、現在の中国では、儒教の代わりに一党独裁が存在している。なお、老子の思想は、分業を排除するものではないし、逆に資本制的分業を自明とするものでもない。分業には「上から強いられた分業」と「横からの自発的な分業」とがあり、マルクスは、『哲学の貧困』において「自発的な分業」から「強いられた分業」への移行を歴史的にわかりやすく記述したプルードンを、意図的に誤読している。
 そしてその共同体の中から自覚的に数値を取り入れ、個々の関係を分節化し、風通しをよくする(私的空間を公共に開く、あるいはボランティアを一人占めしない)のが地域通貨である。
 その世界観では自給自足が理想であるとはいえ、そこでは分業が完全に否定されるわけではなく、冒頭のマルクスの文章が語るように、上から押し付けられたのではない、横からの分業が模索され得る。そこに搾取があったとしても搾取そのものがLETSでは顕在化されるのだ。
 だから、世界経済を分析してあらためてLETSの重要性がわかる。
 また、個別資本に資本制の欠陥を見ることは、安易なスケープゴートづくりにつながるもので慎まなければならないが、そこにLETSが導入されれば、

材料費(円)+労働力(LETS)+輸送費(円)

といったように剰余価値の特定が可能になる。
 もっともこの図の材料費と輸送費にLETSが徐々に「導入」され、使用される見通しがなければならないし、安い労働力をLETSで雇うという間違いを犯すべきではない。つまり、労働対価をLETSで払うなら、雇用者も収入が率先してLETSであるべきだし、その比率も同じであるべきである。(ただこれらはあとで述べるように、地域通貨に関しては、「導入」ではなく「はぐくんでゆく」という言葉が適当であろう。女性の立場から子育てを、あるいは福祉を想起しよう)。なお、資本主義もそれを分析したマルクス主義も、剰余価値が増えていくことを前提にする点で、同じ間違いに陥っている。

 唯一の方法は、あとで述べるように、地域通貨による流通システムを築き、そのもとに生産-消費協同組合を組織していくこと、そしてそれを先進国の生産-消費協同組合とつなげていくことである。(TC,p431)

 普通のクーポン券は顧客情報を売る側が囲い込んでしまうので、永遠に買う側は買う側に いることを暗黙の条件にしている。それに対して、補完する形になるにせよ、編み目状の買う側の横のつながりを原理的に作りうる(セミラティスとも言える)のが、LETSの利点である。この買う側と売る側との同時存在の認識は、マルクスの構造的理解を待つ間でもなく重要な考え方であり、 LETSの場合は、売り買いのリストを提示し共有することで、一人の人間が同時に売る側と買う側に立つのである。これは、潜勢的な諸個人(階級的ではなく人格的なそれ)の力を再結集させるためには必要条件である。
 ここで雇用をつくり出すこと、つまり見方を変えれば労働が、生産的な消費そのものであり、消費者の視点が重要であるということをさらに付け加える必要があるだろうか?


「二、地域通貨(地域交換取引制度)の具体的な展開のために」へと続く
関本洋司
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