種子は誰のものか:D)大地

 1)ヨーロッパで農村共同体に対する、土地の囲い込み運動が起こっていた17-18世紀に、イギリスの哲学者ジョン・ロックは、暴力的な血塗られた略奪的行為を合理化した。ロックは、財産とは、自然資源に対して資本の管理に象徴される「精神的な」人間の労働を加えることによって創られ、資本だけが自然に価値を付け加えることが出来ると主張した。資本の所有者のみが自然を所有する権利を持つと。従って、共同体が保有してきた共有権・用益権は否定された。従来、森や川や海は共同体の人々の共同占有でもあった。人間がそこから恵みをうけている自然は、人間が自然から借りているものにすぎず(占有)、利益を得ている(用益)ものにすぎなかった。だが、資本が自然に価値を付与するとの規定のもとでは、自然に対する共同体の占有や用益は否定されたのみならず、占有や用益を主張するひとびとは、資本による所有の自由を奪う者として、略奪者、妨害者として排除された。寺領の略奪や国有地の詐欺的譲渡、共同体の盗奪や残虐なテロをもって、それらは行なわれた。封建的諸関係の解体と同時に、大工業の固有の産物である近代労働者階級の形成史が始まった。農村共同体を破壊された農民は、都市に移動し労働力とならざるをえなかった。大地は、土地所有者によって私有された。あらゆるものを商品化し、貨幣化し、資本化しようとする資本制システムが一旦確立すれぱ、自然と大地に対する私的所有や国家的所有は当然のこととして人々に受け入れられ、共同占有は特殊なものとみなされる。

 2)だが、人間が将来築くであろう高度な社会経済システムの見地から見れば、自然−大地は人間の所有物でなく、共同占有物として、人間は大地の恵みを受けているものにすぎない。そこでは人間と人間との社会的諸関係は、商品、貨幣、資本という資本家的システムから解き放たれ、人間と人間との直接的な社会的協同の関係が形成されるが、その直接的社会的協同の関係は、大地に対する人間の資本家的観念一私的所有観を払拭し、共同的占有観への移行を不可欠の条件にするだろう。資本制社会の成果としての『協業と土地の共同占有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有』を基礎とするような生産者たちの『自由な連合』こそが、まさに『自由な労働』と『自由な享受一取得』が、高度な社会経済システムにおいて実現されることを通じて、資本制によって一旦は生産者から完全に分離させられていた大地を、再び生産者達の『肉体のいわば廷長』に新しく転化させるのである。社会は人間と自然との物質循環を回復する。自然の真の復活である。


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田中正治
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